第8話 水墨画談義でのうっかり
「素敵な
恥ずかしいから手を離してほしい、と、そう何度か
紅月は紅月で、朗輝との対面の最初の衝撃からはなんとか立ち直り、とりあえず相手に対してまともに口を
「紅月どのは、
紅月が思わず口にした言葉に反応した朗輝は、澄んだ黒い
そんなに真っ直ぐに見詰めてこないでほしい、と、内心で思いながら、紅月は口を開いた。
「さほど詳しいというわけでもないのですが……さすがは皇宮だけあって、すばらしいものがたくさんありますね」
「なんなら、ゆっくり見る? 急がないよ」
朗輝がにこやかな表情で促してくれたので、紅月もうなずいて、ふたりで画の前に立ち止まった。
壁に掛かっているのは、立派な
けれども、紅月の口からこぼれたのは、そうした感想ではなかった。
「この橋の曲線が、とてもうつくしいですね……
うっとりと言ったところで、隣から、くす、と、ちいさな笑み声が漏れるのが聴こえた。
はっとして、そちらを見る。笑ったのはもちろん朗輝だった。
どうしたのだろう、と、紅月が戸惑って相手の表情をうかがうと、朗輝は目を細めて、ごめんなさい、と、笑いながら
「曲線に比率に角度に割合……なかなか独特な感想だから、ちょっと、面白くて。はじめて聴いたな」
最後に付け足すように言って、相手はくちびるをゆるませる。
朗輝の言葉に紅月は、しまった、と、息を呑んだ。
ついつい口を
それを確認して、こっそりと、ほう、と、
「もし気に入ったのなら、この
朗輝が言った。
「と、とんでもございません! そんなつもりでは……」
紅月は慌てて首を横に振った。
「そう? 遠慮しなくていいのに……なんて、ね。――実は僕が
相手はすこし笑み含みに、どこか
「え、殿下が?」
紅月は、ぱちぱち、と、目を
「うん。これから行く、
「そ、そんなつもりでは……! と、とても、お上手だと思います」
お世辞ではなく、実際、朗輝が描いたのだという水墨画は、紅月には、人の目を引く素晴らしいもののように思われた。
「ありがと。あなたにそう言ってもらえるとうれしい。――行こうか」
朗輝はその話題をそこまでにして、そんなふうにこちらを促した。
再び歩き出す彼に、紅月もついていく。すると、やがて、
池があり、橋があり、その向こうの浮島には
紅月は、よく手入れされた園林へと、ゆっくり視線を巡らせた。
橋へと続く道には、所々に奇岩が配され、また、いまを盛りととりどりに咲き誇る大輪の菊の鉢がいくつも並べられている。
「見事な咲き振りですね」
朗輝に伴われて歩きながら、ほう、と、嘆息まじりにつぶやいた。
純白、明るい黄色、淡い
「あなたはどれか好みなんだろう? 好きなのがあったら、僕に教えて。あなたの好むものを、僕はたくさん知りたいんだ」
花に
一瞬なにを言われたのかわからなくて、けれども、刹那の後にそれを理解して、紅月は頬を染めた。
紅月のことを知りたい、と、朗輝はそういう意味のことをいま言ったのだ。からかわれているだけかもしれない、口先だけの社交辞令なのにちがいない、と、そう思うのに、それでもうらはらに、どうしたって冷静ではいられなかった。
ことことこと、と、
「ど、れも……すてきですから」
選べません、と、かろうじてそんなふうに
「
朗輝が再び紅月の手を取った。向かうのは、浮島に建つ、
「橋はあぶないからさ、その間だけゆるして?」
朗輝がそう言うのは、先程手を取られた紅月が恥ずかしがったからだ。それで、いままた手を
紅月は、こく、と、ちいさくうなずく。
こまやかな気遣いが嬉しくないはずはなく、けれども一方で、そんなふうな扱いを受けると、なんとも
朗輝のてのひらはあたたかい。そのぬくもりが、互いの肌と肌の間でとろりととけて、じんわりと
知らず、ますます鼓動が早くなってしまって、思わずうつむいてしまっていた。
調子が、狂う。
「ま、ほんとは、いまのは言い訳で、僕があなたと手を繋ぎたいだけだけなんだどね」
ちらりと悪戯な笑みを浮かべた朗輝が小声でそんなことを言い添えるものだから、紅月はどうしていいかわからなくて、ちいさくなった。いっそ心を落ち着けるためにこの場で
手を引かれたままで橋を渡り切った先には、ちいさな
紅月を
「どうぞ」
食べるよう促されて、礼を述べてから、口許へ運ぶ。菓子はほろりと口の中でほどけ、上品な甘さが舌の上に広がった。
おいしい。思わず頬がゆるんでいた。
「甘いものは、好き?」
そんなこちらの表情の機微を見て取ったのか、朗輝が目を細める。
「はい。甘味は、あた……」
頭の働きを助けますから、と、ついうっかりそう言いかけて、紅月ははっと押し黙った。
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