第7話 まさかの言葉の数々

 この方が朗輝ろうきさま、と、紅月こうげつは言葉にならない声でつぶやいた。まるまると目をみはってしまっている。


 はたはた、と、二、三度、意味もなくまばたきを繰り返しながら、目の前の相手をぽかんと見つめた。


「えっと……」


 何と言っていいか、わからない。


 だって、いま相手は、李朗輝と、そう我が姓字なまえを告げたのだ。そして、皇太子の子だと、そう言ったのである。


 ということは、目前に立ち、紅月の手を取っているこの少年こそが、今度の見合いの相手である皇太孫殿下だということだ。


 皇宮の奥深くにいるだろうと思っていた相手の不意の登場に、紅月は目を白黒させた。え、え、と、戸惑いつつ、ただただ呆然と、少年の――朗輝の――顔をまじまじと見るばかりである。


 皇太孫殿下――……この、御方が。


 もう一度、相手を見つめつつ、思う。


 言われてみれば、少年がまとっている紺青色の長袍きものは――動きやすそうなそれでこそあるものの――従僕じゅうぼくのものとは明らかに違う、上等な布地に精緻せいちぬいとりが施されたものだった。


 さらにいえば、上品で端正な顔立ちの、その透けるように白い肌はなめらかで、肌理きめこまかい。手入れが行き届いているからこそのものに違いなかった。


 それに、こちらの手を取っている彼の指先も、すこしもざらつかず、荒れた様子がないではないか。剣を握ることがあるのか、肉刺まめこそあるものの、日々雑用などをこなしている者の手とは明らかに違っていた。


 そしてなにより、先程から、馭者ぎょしゃや護衛の士卒が、彼に対してかしこまっているのである。


「皇太孫、殿下……」


 呆然とそう言ったきり、紅月はかたまってしまった。


 朗輝はそんなこちらを前に、はい、と、朗らかに応じる。それから改めて紅月の手を取って、そのまま半歩ほど、紅月との距離を縮めた。


 伸び盛りだろう少年より、いまはまだすこしだけ、まだ紅月のほうが背が高いようだ。だから朗輝がこちらを見るとき、ほんのわずか、こちらを軽く下から覗き込むようなかたちになる。


 彼はやや上目遣いに、真っ直ぐに、紅月の顔を見つめてきた。


「お待ちしていました、紅月どの」


 少年らしい、溌剌はつらつとした、明るい声が告げる。


「というか、待ちきれなくて、ここまで迎えにきてしまったんだけど。驚かせてしまったみたいだね。ごめんなさい」


 朗輝は軽くびながら、それでもちいさく肩をすくめて、ちらりと悪戯いたずらっぽい笑みを見せた。


「来てくれて嬉しい。あなたに会いたかったんだ。でも……」


 そこで、ふと、言いよどむ。


 そのまま、わずかに目を伏せがちに、視線を逸らしてしまう朗輝に、紅月ははっとした。


 いったい、何を言われるのだろう。


 実際にこちらの姿を見て、朗輝はがっかりしただろうか。婚期などうの昔にのがしているような、九歳ここのつも年上の娘になど、会ってみるだけ時間の無駄だったと、そう思っているのかもしれない。


 眉根を寄せて相手の言葉を待つ紅月を、朗輝は、ちら、と、うかがい見る。


 その口許くちもとに、ちいさく、はにかむような笑みが浮かんだ。


「あなた、ずるいや。だって、想像してた、何倍も綺麗なんだもの。鼓動がうるさくて、顔が熱くて……ああっ、もう。だめだな、僕……ほんとうはさ、恰好かっこうよく、あなたを園林にわまで案内するつもりだったのに」


 調子が狂ってしまう、と、朗輝は気恥ずかしげに頬を染め、こちらからは目を逸らしたままで、ぶつぶつとつぶやいた。


「え……?」


 紅月は我が耳を疑った。


 相手の澄んだ黒いひとみは、実は、まともに物を見られていないのではないか、と、そんな失礼なことすら考えた。


 だって、ずいぶん年上の紅月を見て、綺麗だなんて――……改めて述べ立てられた言葉を心中に反芻はんすうしてしまい、こちらこそ恥ずかしくなってくる。


 紅月は、はたはた、と、またたいた後で、そのまま目を伏せてしまった。


 何と答えていいものか、わからない。


 頬が熱い。心臓がうるさい。


 どうしたら、いいのだろうか。


 朗輝が、ちら、と、こちらを見た。


 それから、きゅ、と、くちびるをむ。


「ずるい」


 そう、相手は紅月をそっとなじった。


「なに、その顔……今度は、可愛い」


 可愛いとはあいしと書くのだと、いったい、この少年は知っているのだろうか。


 紅月はますます頬を赤らめて、深く俯いてしまった。


 ちいさく眉根を寄せ、困ったような苦笑を口の端に浮かべた朗輝は、気を取り直すようにひとつ深呼吸をする。


「行こうか。案内するよ。園林ではいま、菊が綺麗なんだ……といっても、あなたのうつくしさを前にしたら、花も恥じらってしまうかな。ほら、羞花しゅうか閉月へいげつって言葉もあるし」


 しまいにはそんなことを言い出した皇太孫は、紅月の手を取ったままで、皇宮の奥を目指して歩み出すようだ。


「で、殿下、あの……お、お手を、お放しくださいませんか……」


 手を引かれ、足を踏み出しながら、紅月はようやく言う。


「え? どうして?」


 朗輝はこちらを振り返り、きょとんとした表情をした。


「そ、その……はずかしい、ので」


 頬を染めた紅月にとっては、そんなふうに抗議するのが、このときの精一杯だった。

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