第5話 お見合いの意図は謎のまま

「……は?」


 見合いの相手は皇太孫こうたいそんだ、と、そうのたまった父・英俊えいしゅんの言葉に、紅月こうげつは我が耳を疑った。


「もう一度おっしゃってください、父上」


 聴き間違いではないのかと思って、思わずたずね返してしまっている。


「うむ、皇太孫殿下だ。先頃さきごろめでたくご成年を迎えられ、はじめておおやけにそのご存在がお披露目ひろめされた、皇太孫の朗輝ろうきさま」


「…………は?」


 皇太孫殿下。


 すなわち、皇太子のちゃく長子ちょうしで、現皇帝の孫の皇子。


「……どうしてそんな方が、わざわざわたしなどと?」


「それは私にもわからん。だが、皇太子妃さまの御名おんなで、皇太孫殿下とお前の見合いのお話をいただいたのはたしかだ。ほら、これを見てみよ」


 そう言った英俊がふところから取り出し、広げてみせた信書てがみには、なるほど間違いなく、そうしたことがしたためられていた。


 いわく――皇宮こうぐう園林ていえんでは、いま菊花きっかが見頃。家のご長女におかれては、ぜひとも参上して、皇太孫と共に賞花はなみを愉しむように、と。


「……これ、何かのわな陰謀いんぼうではないのですか?」


「いや……さすがにそれはなかろう。蘇家うちめたところで、得をする者がいるか?」


「それは、まあ、たしかに……」


 紅月は細いあごに指を当てて、思案するようにうなった。


 高官とはいえ、英俊は礼部れいぶ侍郎じろうである。これが、財務やら兵権やらといったものをつかさど戸部こぶびょうだというならともかくとして、あずかるのは、祭祀典礼がおもなのだ。たしかに、そんな蘇家をおとしいれてみたところで、相手にとってたいした実益が得られようとも思われなかった。


「では……どうしてでしょうか?」


 紅月は独り言のようにつぶやいた。


 そして、思いついた、と、でもいうように、はっと顔をあげる。


「もしや太孫殿下は、対象となる家格かかくの令嬢たちと、年が上の者から順々に見合いをなさるおつもりなのではないでしょうか? それならば、最初は、他の追随ついずいを許さず、わたしですね」


「紅月、お前……なんだその自虐じぎゃくめいた理由は」


 英俊は眉をしかめた。


「ですが、父上、ありそうではないですか? つまりは、練習台の踏み台ということ……ええ、ほんとうに、そうなのかもしれません。だって、わたしでしたら、たとえ見合いがうまくいかなくとも、こちらの所為せいにできますし。練習台としてはちょうどいいですよね。きっとそういうことです、父上」


 自分が思いついた可能性をつらつらと語って、紅月はにっこりと微笑んだ。


「だからあまり期待しすぎないでおきましょう。ぬか喜びに終わる確率が九割。いえ、九割九分九厘、そうなります」


「……っ、だから、お前は! 私の前なら良いが、確率などと、余所よそでは軽々に口にするんじゃないぞ。まったく」


 父は腕を組んで、鋭い視線で紅月を見据みすえる。


「よいか、紅月。皇族方の思惑はさておき、とにかくお前は、近々、もったいなくも、太孫殿下と見合いをすることになる」


「ええ、はい。蘇家うちの立場では、皇族からの申し入れをお断わりすることなどできませんものね。すぐに向こうから断られるのでしょうが」


「っ、紅月! ――とにかく、算術好きは隠しておきなさい。殿下も噂くらいは耳にされていらっしゃるかもしれないが、そこはそれ、風の噂ですよというていで押し通すのだ。噂には尾鰭おひれがつきもの、運が良ければ誤魔化ごまかせるかもしれない」


「そうでしょうか……?」


 それは希望的観測が過ぎるのでは、と、紅月は思ったが、父に睨み据えられたので黙っておくことにした。


 その間も、父はひとりで、ぶつぶつと言葉を続けている。


「そう、あとの問題は、お前のあざなについての口さがない風聞うわさ……それさえ知られることがなければ……」


 英俊がそう口にしたとき、紅月はまた、ふっと身がすくむ想いがした。


 ――不吉な紅月。


 誰かがいつか言った言葉が、耳の奥で、うわんうわんとこだまする。紅月は無意識に息を呑み、くちびるを引き結んでいた。


「いまではもうずいぶんと時もって、あの頃の風聞うわさも、ずいぶんと下火だ。――だから、大丈夫だろう」


 英俊は最後、まるで己に言い聞かせるかのように独りちた。


「だいじょうぶですよ、父上。紅月というの女子は、なにも、珍しいわけではないですし」


 紅月は、やや無理をして、くちびるに笑みを刷いて見せた。


「それに、何度も申しますが、月蝕が不吉だなどというのは単なる迷信です。蝕が起こる日は計算によって割り出すことができるものなのですから、四季が巡るのと、本質的には変わらないもの。自然現象に過ぎません」


 かつての月蝕の日のことを思い出す。紅月は、宵国の人々が不吉とする赤銅色の月であっても、神秘的でうつくしい、と、思っている――……自分の運命を変えた、あの日のくらく輝く月。


 それでも、かつてならもっと自信をもって言い放っていただろう言葉を、いまは強いて、まるで自分に言い聞かせるように、口にしている自分がいた。


 そんな紅月の様子に、英俊はすこしだけ痛ましそうにこちらを見た。


「そうは言うが、この国の皆にとって、まだまだその迷信は真実だから……だからこそ、お前の最初の婚約は」


 そこまで言って、英俊はそれ以上を言わずに、口をつぐんだ。


 黙して表情を消している紅月をまた痛ましそうに見て眉を寄せると、こちらの頭に手を伸ばす。


「私はお前に、もう、傷ついてもらいたくはない」


 英俊は心配のにじむ眼差しでこちらを見下ろすと、穏やかに言った。父の優しい表情に、紅月は、口許をすこしだけゆるめた。


「まあ、とにかく」


 気を取り直すように、英俊が声を張る。


「お前にも、万にひとつくらいは、皇太孫妃になれる可能性があるかもしれない。喜ばしいことではないか……!」


 から元気を振り絞るように再び紅月を真っ直ぐに見た英俊に、紅月は苦笑して、こと、と、小首を傾げてみせた。


「父上、そこは億、いえ、兆かけいに一つくらいなのではありませんか?」


 言葉尻をとらえて反論したら、父は刹那、ぽかんとした。


 それから顔を真っ赤にする。


「……っ、紅月! 言っているそばからお前は! 普通の娘は、億だの兆だの京だの言わんのだ!」


 父の怒声に紅月は首をすくめた。


 わかっています、と、心の中で、ちいさく返事をする。信頼のある父の前だからこそ、言っているだけのことだった。


 だって、紅月だって、もう、あのときのように無闇に傷つきたくはない。


 ――妖女め。


 その言葉で、自分のすべてを否定されてしまったかのような、あの感覚。それがまたよみがえりそうになって、紅月は、ふるふる、と、ちいさくかぶりをふった。


 いまは、目の前の縁談のことを考えよう――……皇太孫・李朗輝との見合い。


 まさに降って湧くように、ふいに舞い込んできた、それはとんでもない縁談だった。その意図も謎のまま、それでもどうやら紅月は、数日後には、皇太孫・李朗輝との初顔合わせに臨むことになるらしい。


 あるいは逢瀬など、最初が最後になるのかもしれないけれども、と、そんな諦めるような気持ちで自嘲しつつ、紅月は帯にはさんだ算盤さんばんを無意識にそっと撫でていた。

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