第3話 回想:運命と出逢った夜

 時は流れて、やはり皓々こうこうたるある満月の晩のことである。


 不吉とされる皆既かいき月蝕げっしょくの夜に生まれ落ちた紅月こうげつは成長し、この年、七歳ななつになっていた。


 けれどもこの小童こどもに、その年頃らしい溌剌はつらつとした気配はない。暮れた園林ていえんを歩む足取りもどことなく重く、その顔はわずかにうつむいていた。


 それはあたかも、空に照り輝く明朗めいろうとした月に対して、気後きおくれでも感じているかのようだ。それで、無意識に視線をらしてしまっているのかもしれなかった。


 人の口に戸は立てられない。


 だから紅月は、自分が生まれ落ちた日のことを、いつとなく知るようになっていた。


 そのせいで、物心つく頃にはもう、自分はのろわれた不吉な子なのだ、と、そう思い込むようになっていた。


 月は、嫌いだ。


 特に盈々えいえいとした望月ぼうげつは、どうしても好きにはなれない。


 今宵は、しょう国の高位・高官の家の者たちが集まって月をたのしむ、弄月ろうげつの宴が開かれている。


 げつ仙女せんにょ姮娥こうが娘々ニャンニャンまつしょう国の人々は、皆、夜空に浮かぶうつくしい月を、仙女の形代かたしろとして愛していた。


 観月は、だから、彼らにとっては何よりの楽しみなのである。


 石畳いしだたみかれた庭院ひろばでは、いま、豪華な宴席が張られている。天にある月とともに、酒や料理、歌舞かぶ音曲おんぎょくなどをたのしむのであろう人々のにぎやかな声が、遠くのほうから響いていた。


 しかし、紅月はその賑わいの外にいる。


 人気ひとけのない園林ていえんへと、ひとり、逃げるようにやってきていた。


 ふう、と、紅月はちいさく嘆息いきをついた。


 園林ていえんの小石を軽く飛ばすと、石は、思いのほか勢いよく転がった。そのまま、波ひとつなくいでいた池の中へ、ぽちゃん、と、ちいさな音を立てて落ちていく。


 月光の下にはすの咲く池にはさざなみが立ち、水面みなもに映った月影がゆらゆらと揺れた。


 そのとき、ふと、紅月は気がついた。


 橋の向こうの浮島にひっそりとたたずあずまやの中に、ひとり、ぽかりと月を見上げる人影があるのだ。


 年齢としは自分よりも十歳とおばかり上だろうか。軽くあおのいて、じっと天を見つめている。


 なにをしているのだろう、と、しばらくその人物をうかがっていると、そんなこちらの気配に気づいたらしい相手が、ちら、と、紅月のほうを見た。


 そして――意外にも――にこり、と、屈託くったくなく笑った。


「あなたも月見ですか?」


 相手はやわらかな声で言った。それから、かけていた椅子いしからすっと立ち上がると、橋を渡って、紅月のそばまでやってくる。


 黙って無遠慮な視線を向けていたこちらに気を悪くするふうもなく、相手はゆっくりとかがんでこちらと顔の高さを合わせると、再び紅月にやさしい笑顔を見せた。


「あなた、も、お月見……?」


 相手の微笑につられるように、気づけば紅月は、おずおずとたずねている。けれども、もしも観月ならば、皆とうたげにまじればいいものを、と、そう怪訝けげんにも思った。


 そんなこちらの疑問など知らぬげに、その人は目をすがめる。


 そして、真っ直ぐに、夜空にあかい月を指さした。


「わたしは、月が欠けるのを――しょくを、待っています」


 言われて、紅月ははっと息をんだ。


 だが今度も、やはり相手はこちらの思いには気づかぬふうだ。満月を仰ぎ見ている顔は、にこにことして、いかにも上機嫌だった。


「わたしの計算では、今日は皆既蝕になるはずなんです」


 その人はつづけて、そう言った。


「けい、さん……?」


 相手の意外な言葉に、紅月はぱちくりと目をまたたいた。


 紅月の知るところでは、月仙女をまつるこの国において、月蝕は、最もむべき不吉の前兆まえぶれである。それは予告なく不意に起こり、それゆえにこそおそれられる、これ以上ない凶兆だとされていた。


「計算って?」


 紅月はおずおずと訊ねた。


「ええっと、詳細を話すとややこしいのですが……要するに、これまでの蝕の記録をもとに、算術を使って、次に蝕になりそうな日を求めてみたということです。今宵はそのうちのひとつで、たぶん、皆既蝕――紅月が、見られるはず」


「紅月は……見ると、不幸になるって」


 かつてそんなみ日に、自分はこの世に生を受けた。凶に凶を重ねることですこしでも不吉を打ち払おうという意図で、紅月、と、そんな名を負って生きることになった。


 負い目にも似た想いのために、紅月の声は、後にいくほどちいさくしぼむ。


 けれども、それに応えた相手の声音は、紅月の小声とはうらはらに、いかにも澄んで明朗としていた。


「まさか!」


 その人はきっぱりと言い切って、明るい笑顔をみせる。


「考えてもみてください。だって、月蝕の日は、計算で求められるのですよ。周期があるのだから、月蝕も、単なる自然現象のひとつでしょう? わたしは月蝕の記録を見るのにずいぶんと史書をあさりましたが、あらしひでり、洪水や地震などの割合が、蝕の年に限って、かたよって多かったなどということはありませんでした」


「ほんとう……?」


「ええ。蝕が不吉だというのは、単なる迷信だと思います」


 言われて紅月は、ほう、と――まるで、生まれて初めてこの世で呼吸いきをしたかのように、心の底から――長い長い吐息といきをもらした。


 相手がすっと目を細める。


「わたしの計算では、今日の次の月蝕は五年後、それからまたその四年後に、紅月が見られるはずです……もし当たったら、月蝕が不吉だなんて単なる迷信だと、あなたは信じてくれますか?」


 その人は冗談かるくちめかして言って、微笑む。


 その笑顔につられるように、紅月もちいさく笑った。


「――あ!」


 そのとき、相手が声を上げた。


「ほら!」


 得意げに指し示してみせる先では、満月に、わずかに影が差し始めている。


 世人よひとおそれる、蝕だ――……けれども紅月には、いま中空にえと輝くその月が、これまでに目にしたどんなものよりもまばゆく、気高く、尊く見えていた。


 自分は呪われた、不吉の象徴なのだとおもっていた。


 でも、そうではないのかもしれない。


 顔を上げ、月を仰ぎ見た紅月の心には、ほんのりとあたたかな光明あかりのようなものがともっている。


 その夜の出来事は、確実に紅月を変えた。


 紅月は、夜空に皓々こうこうと照る明月のうつくしさを初めて知り、そして、己にそれを教えた人が口にした算術というものに対しても、心の底から感嘆した。


 それはまさに紅月にとって運命の夜であった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る