第2話 回想:建国神話と紅月の誕生

 どこの国にも、建国にまつわる神話、あるいは英雄えいゆうたんなどが語り継がれているものだろう――……ここ、しょう国においては、げつ仙女せんにょ姮娥こうが娘々ニャンニャンが、その物語の主役であった。


 美しく賢い仙女・姮娥こうがは、自らの形代かたしろを夜空に浮かべて、太古の世界にこごっていた渾沌こんとんの闇を打ちはらったのだという。それが、すなわち月である。


 そしてまた、その満ち欠けをもって人々に時節ときをしらせることによって、農耕のうの道を拓いたともいう。


 この仙女・姮娥の加護を得て、東呉とうごと呼ばれる地に国を建てたのが、宵国の初代皇帝だとされていた。


 以来、宵国の皇家では、代々にわたって、祖神にも等しい存在として姮娥娘々を大切にまつっている。


 これにならうように、宵国の各地にもまた、月仙女・姮娥を祀る廟堂びょうどうがたくさん存在していた。


 祈りに訪れる人々がく線香のけむりも、そして、祭壇に捧げられる供物くもつも、絶えることはない。


 ――麦がよくみのりますように。


 ――家内が安全でありますように。


 ――やまいが平癒しますように。


 ――良い職に就けますように。


 ――選挙しけん及第ごうかくできますように。


 ――良縁が得られますように。


 ――子宝にめぐまれますように。


 人々が姮娥に祈ることは様々だ。それだけ、この仙女が宵国で尊崇を集めているということだった。


 一方で、月の仙女をまつる国だからこそ、み嫌われるものもある。


 月蝕げっしょくだ。


 特に、満月が時ならず不意に欠けはじめ、やがてほのぐらあかがね色にすべて染めあげられてしまう紅月こうげつ――皆既蝕――は、国家に大きな災禍わざわいをもたらすものとして、最も不吉だと言われていた。


 紅月は、ただ目にしただけの者をすら不幸にする、凶兆きょうちょうの極みと信じられている。


 宵国の皇都・盈祥えいしょう


 夜空に朗々ろうろうたる望月ぼうげつの浮かぶ、とある深更のことである。


 夕刻に女主人が産気づいてからというもの、いま、時刻はすでに真夜中に至るも、府邸やしきの中はまだあわただしいままだった。


 そんな中、湯を満たしたおけを抱えてせわしく走廊ろうかをやってきたひとりの女が、ふいに夜空を見上げ、悲鳴じみた声をあげた。


「ひっ……つ、月が……!」


 女の声につられるように、その場にいた何人かが、天高い位置の月をあおぎ見た。


 そして、めいめいが息をむ。


「しょ、蝕だ……!」


「月が欠けている……!」 


 誰も彼もが、慌てて顔を伏せた。


 ここ宵国において、月蝕はなによりも不吉なものとされている。目にすれば、それだけでのろわれるとも、あるいは災厄さいやくこうむるのだとも、信じられていた。


 しかし、蝕は不意に起きる。


 あらかじめその発生がわかるものではなかった。


 だからこそ余計にそれはおそれられているわけだが、ふつう、蝕に気付いた人々は、すぐにも房間へやの中にこもって、蝕が終わるまでは穏和おとなしく過ごすものだった。


 だから、いま意想外の蝕に襲われた人々もまた、それぞれに、慌てて房間へやへ駆け込んで、そこに籠ってしまいたい気持ちでいっぱいであった。


 が、今宵ばかりは、そうはいかない。お産は待ってはくれないからだ。


 兢々きょうきょうとしながらも、務めを投げ出すわけにいかない者たちは、院子にわを渡る走廊かいろうを、なるべくうつむきながら身を縮めて歩いた。


 房間へやの中からは、いままさに出産にのぞんでいる女主人のうめき声が聴こえている。


 それがどれほどの時間続いただろう。


 やがて、おあぁ、と、産声が上がった。


 そのとき、まさに空の月は、くら赤銅色しゃくどういろに染まっていた――……紅月である。


「なんと、不吉な……」


 誰かがぼそりと言った。


 すぐにその不用意な発言をとがめるような空気が場には満ちたものの、口にこそせずとも、誰もが想いは同じだったろう。


 ――……紅月の最中に生まれ落ちた赤子は、もしや、なにかの凶兆なのではあるまいか。


 すぐに道士どうしが呼ばれ、やく払いのための巫術まじないが施された。


 凶をもって凶を制すべし、と、道士は言った。


 そもそも、赤子の無事の成長を願って、生まれた子にえて醜悪しゅうあくな名を与えることは、往々おうおうにしてなされることでもある。


 この日、皆既月蝕の最中さなかに生まれ落ちたその子は、紅月、と、名付けられた。

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