36.女優

 電車の中で眠りにつきふと目を開けると、電車は既に停まっていた。車窓の向こうでは青空を地面に植えたような花畑が広がっている。あの花は勿忘草だ。


 こんな花畑、現実の沿線では通らない。周囲には誰もいない。つまりここは夢だ。車内の電光案内板にも「帰し方」と出ている。直近で泣きたいほど悲しい出来事に遭遇してないのに、頬にはなぜか涙が伝っていた。


「忘れないで」


 突然、目の前に誰かの面影がある女性が現れた。長い髪をすとんと下ろし、小花が散った白いワンピースを着ている。夜に眠った時のほぼ全ての夢で彼女と出会う。ただ、昼間に会うのは珍しい。


 彼女が何を「忘れないで」と言っているかはすぐに分かった。だってそれは、ある過去のしがらみから解放されたがってるわたしの記憶からその過去が抜け落ちないように引き留めようとしている言葉だから。


 嫌だ。いい加減忘れさせてよ――


 そう口を開こうとすると、また眠気に襲われた。もう現実世界に呼び出されたみたいだ。夜に見る夢よりだいぶ早く別れが訪れて助かった。わたしは静かにまぶたを閉じる。



 次に目を開けた時にはわたし以外にも何十人もの乗客が座っていて、左右に咲良と由幸さんと原田先生もいて、密かに胸をなで下ろす。ちょうど鏡後駅に着いたところなので、みんなぞろぞろと電車から降りていく。


「ここは……2005年?」


 他の乗客たちと同様にホームへ出て、階段を降りながら由幸さんが呟く。わたしも自分の切符に印字された文字を読む。


「2005.-6.12」とある。随分昔の時代に来たものだ。現代よりも蒸し暑くて、ブラウスの袖をまくった。


 外に出ると、不意に近くの家電量販店の店頭で当時流行っていたテレビゲームのCMがアナログテレビに映されているのを目に捉えて立ち止まる。小さい頃に家でよく家族と遊んでたゲームだ。


 あの時はゲームが下手だったけどみんなで遊べるだけで楽しかったなぁ、と回顧していると、突然思い出したくない記憶まで呼び起こされてしまった。胸をぎゅっと掴まれ、息が詰まるような感覚に襲われる。


「美亜、どうかしたか?」


 行き場のない負の感情をどう発散させればいいか戸惑う中、原田先生の声で我に返る。そうだ、今は過去に浸ってる暇はない。


「す、すいません、何でもありません」

「そうか? まあ無理はするなよ」

「……分かってますって」


 心配そうに眉を顰める先生を追い抜いて、2人で会話中の咲良と由幸さんの背中を追う。


「帰し方駅に来れたってことは、花村結生がこの時代にいるんですよね」

「そうだね。ほら、僕たち以外の星影も見えてるよ」


 花村結生の存在を示してるであろう星影は、現在地からそう離れていなかった。花村結生がこの市街地のどこかにいる可能性は高い。


「よし行こう!」


 由幸さんは普段よりも速いスピードで駆け出した。彼の背中があっという間に小さくなっていく。


 星影が感知できるおかげで帰し方駅で由幸さんを見失うことはないけれど、今日の由幸さんはこのまま1人で突っ走りそうだからわたしたちは必死に追いかける。掃除屋に襲われた時のために温存していた体力があっという間に消耗されていく。


 でも、体力を使い切る前に花村結生の星影までたどり着けたのは幸いだった。由幸さんは階段のそばに身を潜めて、呼吸も忘れたように噴水広場のベンチで1人くつろぐ明るい茶髪の女性を静かに窺っていた。さっきの心配は杞憂だったみたいだ。


 その女性はキャスケットを被ってうつむいていて、花村結生かどうか判断がつかない。しかし、彼女と同じ位置に星影が浮かんでいる。幅広いベルトで締めたハイウエストのワイドパンツに七分袖の白いシャツをしまい、ヒールがついたサンダルを履いているというコーデが、座り姿勢でも隠しきれないスタイルの良さを引き出していた。


「ほ、本物の花村結生だ……」


 畏怖と興奮が混ざり合った声色で、由幸さんは感嘆する。顔がよく見えないとはいえ、彼女だけは他とは違う特殊な雰囲気を醸し出しているのは確かだった。


「じゃあ声をかけてみるか」

「え、もうですか!? 僕まだ心の準備できてないです!」


 ぶんぶんと首を横に振る由幸さんに、原田先生は呆れたため息をつく。


「言い出しっぺが何をビビってるんだ」

「だって何年も好きだった人が目の前にいるんですよ。畏れ多くてこれ以上近づくのもためらっちゃいますよ」

「なら由幸はそこで待ってろ。あ、でも美亜と咲良は一緒に来てくれ。男1人だと警戒されかねないからな」


 原田先生に名指しされて、わたしと咲良は顔を見合わせる。先生と共に噴水広場へ向かうと、ひんやりした空気に歓迎されて心地よかった。


「ちょっといいですか」


 原田先生が微笑を浮かべながら話しかけると、女性はおもむろに顔を上げる。やっぱり本物だ。テレビやネットでよく見る、あの花村結生に違いない。由幸さんほどじゃないけれど、いざ彼女と対峙すると「この人とは触れてはいけない」と畏怖が芽生えた。


 花村結生はきょとんとした顔で、芝居をするようにゆるりと首を傾げる。


「えっと……何か?」

「あんた、花村結生だよな」


 原田先生がその名前を口にした瞬間、ひっと鈴を転がしたみたいな声が悲鳴を上げる。そして花村結生は衝動的に立ち上がり、逃げ出した。


「あ、おい待て!」


 先生は彼女を追いかける。また走るのか……


 サンダルを履いているせいか花村結生の足は速くなく、先生はあっという間に追いつく。花村結生を横切って、彼女の目の前に立ちはだかった。


 道を阻まれた花村結生が立ち止まってるところにわたしと咲良も合流して、咲良は向かって右側へ回ったので3方向から花村結生を囲む形になる。左側は壁だ。彼女はもう逃げられない。


「はぁ……びっくりしたよ、いきなり走り出すとか……」


 少し遅れて由幸さんもこちらに来た。花村結生の姿を目に入れるや否や、わたしの背後に半身を入れる。


「なんで隠れるんですか」

「まだ緊張しちゃって……」


 表情を強ばらせた由幸さんの頬は赤らんでいた。


 一方、逃げ場をなくした花村結生は青ざめた顔でわたしたちを一瞥する。そして、視線をコンクリートへ投げて誰ともなしに問う。


「……私を連れ戻しに来たんでしょ?」

「そうだ」


 花村結生の質問に答えたのは原田先生だった。彼女の後頭部が上がる。先生とは再び双眸を交えていることだろう。


「そっちは俺たちに無理やり現代に帰されると思って逃げたんだろ」

「ええ。こっちでやらなきゃいけないことがあるから……ちなみに現代の日付はどうなってるの?」

「5月31日だけど」

「そう。まだ1週間はここににいられるわね」

「は?」


 花村結生の突飛な発言に、原田先生は絶句した。何を馬鹿なことを言ってるんだと、花村結生を取り囲む全員がそう思っているのが伝わってくる。いったいどんな過去に縛り付けられているんだろう。


 嫌だ。消えてほしくない。わたしの日常をこれ以上壊さないで――


「正気ですか!? そんなに長く帰し方駅にいたら消えちゃいますよ! 誰の記憶からも自分の存在を忘れられちゃうんですよ!」


 原田先生の隣に移動して、わたしも花村結生と対面する。わたしという盾を失った由幸さんもついてきた。


「僕は嫌ですからね! 花村結生……花村さんがこの世界からいなくなるのは!」

「大丈夫よ。用が済んだら絶対に帰ってくるから。消えないようにちゃんと調整するから」


 取り乱すわたしと由幸さんをなだめるように、花村結生はそっと微笑む。消えるとかこの世界からいなくなるとか脅されても驚かないし、「調整」というこなれた言い回しなんかしているから、彼女も帰し方駅に精通しているんだろうか。


 だけど、本当に大丈夫、心配しないで、と言い聞かせられても信頼できない。


「あの、花村さんはなんでずっと帰し方駅にいたがるんですか?」


 感情的なわたしや由幸さんに比べて落ち着いている咲良が、少しこちら側に寄りながら

尋ねる。


「人を捜してるの。この世で一番かくれんぼが上手い人をね」

「ならあたしたちも手伝いますよ。こういうのは人が多いほうが――」

「それはダメ!」


 咲良の言葉を遮って、花村結生は強い語気で否定した。拒絶を一身に受けた咲良はすっかり震え上がってしまう。


「この人捜しは私1人で十分なの! 貴方たちの力は一切必要ないの! 私は帰し方駅に2週間はいられるけど、そっちは1日くらいしかいられないでしょ? だからもう帰ってよ! お願いだから……」


 何らかの責任を全て自分で背負おうとしていてどこか痛々しい叫びは数多の足音や話し声を貫通したらしく、通行人がちらほらとこちらを見ながら通り過ぎていく。花村結生は怯えた表情で自らの両腕をさする。


「って言われてもなぁ、何日も結果が出てないのが現状だろ。おとなしく諦めるか俺たちの手を借りるかどっちか選べ」


 原田先生が花村結生の脳内にはないであろう選択を迫る。しばらくの逡巡があって、花村結生はついに腹を決めた。


「……分かった。それじゃあ私を手伝って」

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