Ⅳ両目:白日に呑まれた六等星
33.Secret Talk
18時を過ぎた頃。電車が上り終点の鏡後駅に着く。コツコツと足下のヒールサンダルの音が甲高く響くと、心臓の辺りがざわついた。うるさいな。
ちょっとした音で苛立ってしまう原因は分かっていた。刻架に帰省して早々、時間警察が気味の悪いことを言ってきたせいだ。キャスケットを目深に被り、黄昏に染まった市街地を進む。
住宅街へ出てふと空に目を向けると、そういえば空はこんなにも広いんだった、と思い出す。人も建物もひしめく東京で暮らしていると、無限に近いほど広大な世界への畏怖を忘れてしまう。
荒んだ心が微かに穏やかになるのを感じながら、目的地にたどり着く。母校の近所にあるレストラン、ラルゲットだ。時間帯が時間帯だからか、店内は混み合っていた。
「いらっしゃいませー。1名様ですかー?」
「あの、勿忘草のハーブティーをください」
声のトーンを限りなく下げて、私は出し抜けに女性店員へ注文を入れる。たかが声だけで素性は知られないだろうけれど、念のため。
彼女は小洒落た模様のドアを開け、私を店の奥にある個室へ連れていった。紺色の暖簾をくぐると、高校の同級生の
「お、結生! 久しぶり!」
伊吹が嬉しそうに小さく手を振る。私はキャスケットを外して微笑む。上手く笑えてるだろうか。
「愚痴ならいくらでも聞くぞ。今日は俺の奢りだ、どうぞ遠慮なく」
先生がトン、と指先でメニュー表を叩く。やっぱり不機嫌なのはばれていたか。
私はため息をついて、2人の向かいの席に座る。
「これでも役者の端くれなのに演技下手ね、私」
「せっかくのオフなんだから素直になってもいいじゃん。ほら、リフレッシュ!」
伊吹は笑顔で私に注文票を差し出す。いくつか注文番号が書かれてる下に、デミグラスハンバーグとノンアルコールビールの番号を書いて呼び出しベルを押す。本当はアルコール入りを飲みたい気分だったけれど、先生がいるから止めておいた。
先生は酒もタバコも嫌っている。幼少期、父親に酒瓶で殴られたり吸殻を皮膚に直に押し当てられたりと、酷い虐待を受けていたのがトラウマだからと数年前に聞いた。だから高校の旧資料室で生傷が絶えない伊吹が兄と殴り合いの喧嘩をした、などの家族との不和をヘラヘラ笑いながら愚痴っていたのを全身を強ばらせて聞いていたのか、と納得したものだ。血の気を失った指先が震えていたのも、当時の私は見逃していなかった。
「いらっしゃいませ。皆さんお久しぶりですね」
店長の柊さんが注文票を取りに来た。何か話したそうにしていたけれど、忙しいようでそそくさと個室を出ていく。彼の気配が消えたのを確認して、私は伊吹と先生の言葉に甘えることにした。
「私、帰し方駅に行ってくる」
そう宣言すると、お冷を飲んでいた伊吹の手が、お手ふきを広げ手を拭く先生の手が静止する。
「な、なんでまた……」
いつも人前で笑みを絶やさない伊吹が、本心を隠しきれず呆然と口を開けている。先生も眉をひそめていた。
2人ともある程度察しはついてたと思うけれど、一応理由を話す。男性店員がドリンクを持ってきた。
「まあ、帰し方駅に行く理由はそれしかないよな。本気でやるなら長くなるぞ」
先生がアイスコーヒーで口を濡らしながら警告する。
「分かってます。でもそろそろ手を出さないとあの子が可哀想だし、それに――」
そこまで言って、口を噤む。たまの休日を奪った時間警察の言葉を教えてまで、2人を困らせる気はない。元々、およそ1年半ぶりの再会でこんな話をするつもりじゃなかったし。
「俺も行きたいけど、俺がいたって足手まといになるだけだよな。結生と違ってすぐ消されるから」
伊吹は苦笑する。意外だ。高校を卒業してから無鉄砲さがなくなって慎重に物事を考えてるみたいだけど、まさかこの状況でも自ら身を引くなんて。
そう驚く間もなく、やっと料理が運ばれてきた。帰し方駅の話は中断して、私たちは近況報告や仕事の愚痴を語り合った。だんだん時が遡っていって高校時代の話になると、どんなに楽しくて面白い思い出を掘り起こしてもしんみりとした空気が続いていた。
そうして2時間ほどの食事会が終わり、私は鏡後駅に戻る。当然、家に帰るつもりはない。
《間もなく、下り「
私はかつて消えてしまったあの人へ思いを馳せながら、電車に乗り込んだ。
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