31.月夜
無機質な空間に、わたしは立っていた。熱がこもっていて息苦しい、薄暗闇の世界に。空間自体は広いのに、どこか窮屈感がある。
そして目の前には、横たわる眼鏡をかけた少女。
彼女は声を上げて泣いていた。出して、ここから出して、と。
わたしたちはここに閉じ込められているらしい。振り返って入口の扉に手をかけてみるも、扉はびくともしない。
この非現実感……きっと夢だ。晃弘さんたちが監禁された梨奈さんを助けに帰し方駅に行ってるから、こんな夢を見ているんだろう。
早く目を覚ましたい。夢とはいえ、こんな暑くて暗い狭い所にずっと居続けたら気が狂いそうだ。だから早く――
現実の自分に念を送っていると、空間内に響く泣き声が徐々に小さくなっていき、ついには無音の世界が訪れた。
少女は静かに横たわっている。
突然、少女の背後に自分と同じくらいの背丈の女が現れた。初めて見る顔にもかかわらず、わたしは直感した。
この冷笑する女こそが、梨奈さんを閉じ込めた張本人なんだと――
彼女が少女をすり抜けてわたしに迫ろうとした瞬間、やっと現実に戻ってこれた。心臓がまだ早鐘を打っている。
テーブルに置いてあるスマホのロック画面を開くと、時刻はもう7時を回っていた。
向かいの席では咲良が時々原田先生の残したウーロン茶を飲みながら、スマホにタッチペンを押し当てて滑らかに動かしている。絵を描いてるんだろう。
悪夢を見たせいか酷く喉が渇いたので、こっちは半分くらい残っていた原田先生の分のお冷を飲み干す。氷が溶けたお冷は生ぬるかった。
不意にスマホに通知バナーが現れた。伊吹くんからのメッセージだ。
〈やっほー、暇だから話そうかと思って〉
暇つぶしの相手なんて、わたしじゃなくてもいいだろう。家族とか友達とか恋人とか。
そう突っ込んだら、〈家族と話すことはないし友達は忙しそうだし彼女なんかいないんだよ!〉と悲痛の叫びが返ってきた。週末に参加した合コンに失敗してしまい、彼女持ちの友達、原田先生への嫉妬が収まらないという。
〈美亜ちゃんは最近どう?〉
愚痴を吐ききった後、伊吹くんは話題をこちらに回す。
〈この前テストがあったんだけど世界史で92点取ったよ!〉
〈すごいじゃん! 昔から社会得意だもんなぁ〉
〈でもまだ数学は苦手なんだよね……〉
〈それを言われるとちょっと悲しいな。受験期に懇切丁寧に教えてたのに〉
〈教えてくれた数日後に通話でどうでもいい解説をされたせいでもっと苦手になったんだけど〉
〈えぇ!? あんなに解きやすく説明したのに!〉
確かに、伊吹くんはつまずいてた問題の解法を分かりやすく説明してくれた。
しかし、通話でその問題の解答となる根拠を事細かく説明しだして、終いには習った公式や証明の発見者が誰かという歴史の授業も始まり、おかげで頭がこんがらがってしまった。彼は文系なのになんで数学に詳しいんだろう。
「ただいまー」
そう声がしたのでスマホから目を離して入口を向く。遼司さんが手を振りながら暖簾をくぐってきた。
ああ、よかった。やっと帰ってきた。安堵のあまり涙が出そうになるのをこらえて、おかえりなさい、と咲良と一緒に会釈する。
遼司さんに続いて由幸さん、原田先生、晃弘さん、そして梨奈さんが入ってきて――え?
「あの、どうして梨奈さんも来てるんですか?」
「あー、これには訳があって……」
わたしの質問に、遼司さんが事情を説明する。
どうやら晃弘さんが梨奈さんの代わりに廃倉庫に閉じ込められるという作戦は失敗し、廃倉庫に閉じ込められた梨奈さんを当時の監禁時間よりも短い時間で助け出す作戦に変更した。
すると晃弘さんたちが助けた梨奈さんは、トラウマを克服するために帰し方駅に来た現代の梨奈さんに憑依されていることが判明し、そこからいろいろあって今に至るという。
「トラウマを克服するなら現代で済ませれば安全じゃないですか? 多分、何かとやり方はあるだろうし」
話を聞き終えて、咲良が首を傾げる。梨奈さんは苦笑を浮かべた。
「それさっきも言われたけど、犯人が時の使者かどうか確かめるためにもあの時代に行ったんだよね」
「時の使者って……時間警察や掃除屋のことですよね。何か心当たりがあったんですか?」
「ほら、旧資料室で小5の時に帰し方駅に行って、人が消されるのを見たって話したでしょ? 刻研はそういう経験をしても消されないって言ってたけど、帰し方駅に行った後に犯人が接触してきたから、タイミング的に時の使者が私を殺しに来たのかなーって思って。だって帰し方駅に行くのはともかく、人が消されるところを見たって記憶を持ってたらなんかヤバそうじゃん?」
そういえば旧資料室で、梨奈さんは「人の姿をした時の使者もいるか」と質問していた。
あれはもしかして、犯人が時間警察かもしれないと確信を持って旧資料室に訪れたんだろうか。あの時出てきた「時間警察も自分たちと同じようにどこかで生活しているかもしれない」という怪談のような説を思い出してしまい、思わず震え上がる。
「でもハズレだったんだよね」
遼司さんは肩をすくめる。おかげでまたあふれ出そうだった涙は引っ込んだ。
「まあ時間警察が自分の身近にいるとか、普通に考えたらたまったもんじゃないよな」
「犯罪者に好かれるってだけでもお腹いっぱいですもんね」
誰よりも疲れた顔で深いため息をつく原田先生に由幸さんがうなずく。どういう意味ですか、と疑問を投げる前に「犯人は先生と同じ大学に通ってた知り合いだったんだよ」と由幸さんは捕捉した。
「そういえば梨奈、結局トラウマは克服できたのかよ?」
晃弘さんは心配そうに問う。過去を変えられなかったのなら、完全にトラウマがなくなったとは言いがたい。しかも、梨奈さん自身が再び暗くて狭い空間に閉じ込められに行ったのならなおさら。
「うーん、ちょっと分からないかも。さっき廃倉庫にいた時は絶対に助けが来るって信じてたからそこまで怖くなかったってだけだし」
「なら今少しだけ試してみる?」
帰り支度に鞄と伝票を持って立ち上がり、遼司さんがそう提案する。この部屋なら程よく狭く、今なら電気を消せば真っ暗だ。無理だったとしてもすぐ廊下に出られるし。
「お、いいですね。じゃあ早速やってみますね!」
「おい待て。いくらこの店が安全だからって大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ。もう、晃弘は心配性だなぁ。ほら出てって」
梨奈さんはうっとうしそうにしっしっと晃弘さんを手で追い払う。晃弘さんは言われるがままに、遼司さんに便乗して荷物を持って個室を出る。わたしたちも彼に続く。去り際に由幸さんが電気を消した。
――30秒ほど経ったところで、泣きそうな顔で梨奈さんが個室から飛び出した。
「やっぱりまだ無理かも!」
「そうか……さすがにすぐには慣れないか」
梨奈さんも晃弘さんもしゅんとうなだれる。
「でも、あの廃倉庫で梨奈ちゃんは5分も耐えきったんだ。その経験は絶対に役立つさ」
個室とホールを繋ぐ廊下を歩きながら、遼司さんが意気消沈の2人に励ましの言葉をかける。すると梨奈さんの表情はぱっと明るくなった。
「ですよね! 今回みたいに成功体験を積んでいけば、いつかはプラネタリウムにも行けますよね!」
「プラネタリウムか……いつになったら行けるやら」
「晃弘の受験が終わった頃には」
「え!?」
独り言のような発言に返事がくるとは思ってなかったのか晃弘さんは気まずそうで、足取りが遅くなる。彼の横を通り過ぎた時、ほのかに紅潮した頬が目に映った。
お客さんがいないホールで梨奈さんは振り返り、最後尾に繰り下がった晃弘さんを見つめる。
「晃弘だって行きたいでしょ、プラネタリウム。前言ってたじゃん」
「あ、あれは梨奈が行きたいって言ったからで……」
「行きたくないの?」
「……いや、オレもめっちゃ行きたい」
「うん、正直でよろしい」
梨奈さんは満面の笑みでうなずく。晃弘さんに下心があると、果たして彼女は気づいているんだろうか。
「ありがとうございました」
レジカウンターから柊さんの声が聞こえる。遼司さんが会計を済ませていたらしい。後でドリンク代を払わないと。
こちらも全員でお礼を言って、ラルゲットを出る。空には細い月が浮かんでいた。
「今日は手伝ってくれてありがとな。じゃあな!」
「さようならー!」
晃弘さんと梨奈さんは早々に自転車を漕いで帰路につく。楽しそうな2人の見送りを終えると、もう真っ暗だね、と咲良が隣から話しかけてきた。
「あたし、夜まで家に帰らないで放課後を過ごしたの初めてかも」
「わたしは中学の時にちょっとあったよ。でも高校に入ってからは初めてだよ」
「夜の街並みって昼間とは全然違って見えるよね。普段と同じ道なのに、全く別の世界を歩いてるみたい」
「分かる。迷子にならないかちょっと心配になる」
「ねー」
「そんなことより、こんな時間だから不審者に目をつけられないかの心配をしたほうが……」
背後から注意喚起をしてきた原田先生が、急に言葉を詰まらせる。振り向くと、苦しげに左手でこめかみを押さえていた。
「先生?」
不安そうな声色で、そばにいた遼司さんが呼びかける。やがて先生は手を離して、長い息を吐いた。
「大丈夫だ。一瞬、いきなり頭が痛くなっただけだ。でも何か考え事をしてたんだが、もう忘れちまったよ」
「そうですか……嫌いな人と久々に話して疲れが出たんですかね」
「かもな。まあ今日はゆっくり休むよ」
どうやら大事にはならなかったようだ。遼司さんと原田先生のやり取りにほっと胸を撫で下ろす。その直後、今度は「え、嘘!?」と由幸さんが悲鳴に近い声を上げた。
「次は何があったんですか?」
わたしが尋ねると、由幸さんは怯えた顔でスマホを見せてきた。画面にはネットニュースが表示されている。
〈【速報】女優
という見出しとともに、刻架市出身の人気女優の行方不明事件が取り上げられていた。
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