8.掃除屋

 黒い手はわたしの傍を通り抜けて後方に進んでいく。それがもたらした風圧で、肩下まで伸びた髪が揺れる。


 振り返ると、黒い手は咲良の足元の地面に指先が深々と突き刺さっていた。すぐにまた地面から顔を出すと、今度は咲良の斜め後ろに建つブランコの支柱へぶつかった。


 まるで咲良を捕まえようとするように動く異形の姿に、わたしは思わず身震いする。


 いったい何なんだ、これは。前にも帰し方駅に行ったことがあるけれど、こんなものは見たことがない。反面、咲良は初めて帰し方駅に来たにもかかわらず、心当たりがあるようだった。尋常じゃないほどに怖がっていて、顔を青くしてこちらに駆け寄り、わたしのブレザーの袖をぎゅっと掴む。


「これ……刻架に引っ越してきてからたまに頭の中に出てきたやつだ……」

「そいつは『掃除屋』だよ。囚われ人の存在を覚えてる人間が現代からいなくなろうとするタイミングで囚われ人を捕まえて、完全に存在を消してくるんだ。ほら、早く行くよ!」


 遼司さんが真っ先に走り出す。わたしたちも彼について行く。


「なんか……美亜ちゃんから聞いた話と違うんだけど!」


 隣にいるわたしへの当てつけのように、咲良は震える声で苦言を呈する。


 別に隠し事をしてたわけじゃない。何だか誤解されてるような気がしたから、わたしはすかさず弁明する。


「わ、わたしだって帰し方駅でこんなことが起きるなんて知らなかったんだよ! それに咲良はまだ消えないだろうって思ってたし」

「芸能人並の知名度でもなきゃ、大抵一晩と少しで存在は消えちまうからな」

「咲良さん、そのままこの時代の自分に憑依しててよ。そうすれば掃除屋はそれが標的だと気づくのに遅れるから」


 背後から聞こえる原田先生と由幸さんの声音からは、まだ平静を保っているであろうことが窺えた。こういう状況には慣れてるんだろうか。


 ふと首を後ろへ回して黒い影を見やる。掃除屋は目が悪いのかこちらへ近づいてはいるけれど電柱や低木などやたら障害物にぶつかっている。あの調子ならさぎの宮駅まで余裕がありそうだ。


「あの、そこの細い道を左に曲がって道なりに進めば近道になります!」

「お、ちょうどいい。掃除屋は方向転換が苦手なんだ」


 咲良の指示で、遼司さんは進路を変えて直角に曲がりくねった薄暗い路地裏へ入る。彼の言う通り、掃除屋はわたしたちの機敏な動きに対応できずにそのまま直進していった。


 路地裏をしばらく進んでいると、太陽の光を浴びた大通りが見え、踏切の音が微かに聞こえてきた。さぎの宮駅まで近いらしい。


 それなのに、先頭を走る遼司さんが大通りへ出る直前に急に立ち止まった。これ以上行くなと右腕を横に伸ばして。


 その瞬間、目の前に広がる白々しい風景に黒い横線が現れた。向かって左から右へ、大通りを走る車と同じ速度で突き進んでいる。


 やがてそれが消えると、わたしたちは左手に見える踏切と駅舎を目指して再び走り出した。


 踏切を越えようとしたタイミングで運良く遮断機が上がり、足を止めることなくさぎの宮駅構内に入る。


 現代へ帰るには、帰し方駅へ行く時とは逆に上りの電車に乗らなければならない。それだけが目的なら、買う切符は上り行きのものならどれでもいい。


 切符は原田先生が代表して5枚買ってくれた。1駅先の「自動車学校前駅」着の切符を選んだようだ。運賃は遼司さんと由幸さんが毎月集めてるという活動費用から出ているらしい。


「もうすぐ上りの電車が来るみたいだな」


 電光案内板を見やり、原田先生は安堵のため息をつく。と同時に、駅構内に電車が到着するというアナウンスが響く。「新浜松駅」行きの電車が来るそうだ。さぎの宮駅のそばにある踏切も、再び警報音を鳴らし始める。時刻は3時半を回っていた。


「そうそう、咲良ちゃん。もうからは離れなよ。過去の自分に憑依したままだと現代には帰れないからさ」


 ホームへ出る直前に、遼司さんが咲良を引き止めてそう促す。咲良はうなずいて、2年前の自身の体と決別し星霜高校の制服姿で改札を通り抜ける。電車は既に停まっていた。


 車内は春休みの時期でしかも日曜日だからか、大きな紙袋を抱えたショッピング帰りであろう親子や学校名と部活名が書かれたジャージを着た中高生、そして穏やかに談笑を繰り広げている老婦人のグループなどで溢れかえっていた。


 わたしたちが座れそうな席はないから、仕方なくドア付近の手すりや吊り革を握る。最後に電車に入ってきた咲良が「よかった……これでやっと帰れるよ」とほっと肩を撫で下ろした瞬間、再び黒い手が彼女の背後にめがけて飛んできた。


「え、嘘でしょ? 掃除屋もう追いついてきたの!?」

「相変わらず執念深いなぁ」


 由幸さんは素っ頓狂な声を、遼司さんは恨めしそうに低い声を上げる。「掃除屋」という言葉と2人の深刻な表情を目に捉えた咲良も、額に冷や汗を一滴流す。


「咲良!」


 少しでも掃除屋との距離を離そうと、咲良の華奢な手首を掴んでこちらへ引き寄せる。


 思わず大きな声が出て、一瞬にして乗客たちの注目を集めてしまう。しかし、何事も起きてないように見えたのか、すぐに何十もの視線はわたしたちから外れた。どうやら彼らには掃除屋の姿は見えてないようだった。


 掃除屋が電車に侵入してくる。咲良が掃除屋に捕まる。咲良の存在が消える――そんな結末は嫌だ。ここで咲良の時間を終わらせたくない。


 だからお願い。いなくなってよ、掃除屋――


 と、1秒にも満たない時間の中で祈ったのとほぼ同時だっただろうか。ドアが閉まり、掃除屋がドアの窓ガラスに勢いよくぶつかる。その衝撃で手の形をしていた物が崩れ、べちゃりと窓ガラス一面を黒く染めた。


 電車が動き出すと、真っ黒なこびりつきは薄れていって、次第にのどかな風景が現れる。


 ああ、よかった。これでみんなで無事に現代に帰れる。緊張の糸が切れた刹那、わたしの意識はあっという間に沈んでいった。



 ――深い眠りの中、夢を見た。


 それは今日わたしが過ごした1日を反復するという、何とも平凡でリアルな夢だった。

 ただ1つ違うのは、そこに咲良の存在が組み込まれているということだ。


 今朝乗った電車にも教室にも、わたしのそばには咲良がいた。


 きっと世界は咲良が消えた事実をなくして、人類の記憶と日常を塗り替えたことだろう。現実だと錯覚してしまいそうな夢を見ながら、そう確信した。


《次は――終点、「鏡後」です》


 聞き馴染みのある車内アナウンスで目を覚ます。周りには遼司さん、由幸さん、原田先生、そして咲良が立っている。空はまだ明るいけれど、市街地にひしめくビル群にはさっきよりも深い影が落ちていた。


「おはよう、美亜ちゃん」


 先に覚醒していた咲良がにこやかに挨拶をする。わたしも笑顔で返した。


「おかえり、咲良」

「うん。ただいま」


 よかった。これで世界の日常は元通りだ。わたしはもう、存在が消えた人間を記憶している異物じゃない。

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