【特別短編】告白実行委員会 ファンタジア LOVE&KISS

原案・HoneyWorks 著・香坂茉里/角川ビーンズ文庫 /角川ビーンズ文庫

特別短編

 高校生アイドルユニット、『LIP×LIP』の愛蔵と勇次郎の二人が、初めて挑むミュージカルの舞台は、すでに告知もされ、チケットの発売が開始されている。

 ファンのあいだではかなり話題になっているらしく、期待度もかなり高い。それは嬉しいのだが、同時になかなかのプレッシャーでもあった。

 二人とも、舞台で役を演じるのは初めてだ。勇次郎は家の事情で、子どもの頃から稽古をしてきたようだし、舞台に立つのが夢だったと言うだけあって、演技の勉強も積んできている。とはいえ、勇次郎にとっても、演劇の舞台、それもミュージカルの舞台に立つのは初めてのことだろう。

 それは、愛蔵も同じだ。MVでの撮影で王子役を演じたことはあるものの、役者としての経験が皆無な愛蔵はついていくのに必死で、毎日山積みの課題を一つ一つクリアしていっている最中だ。

 朝から夜遅くまで、練習室で演技の稽古、歌やダンスのレッスンに追われているため、このところ二人とも学校にはあまり通えていない。今はそれどころではない、というのが本音だ。

 とはいえ、まだ学生であるため、勉強をおろそかにするわけにもいかない。愛蔵も勇次郎も成績はよく、自主勉強で十分に事足りているとはいえ、学校をずっと休んでばかりもいられない。

 

 何日ぶりかに登校した愛蔵は、午前の授業が終わってから、教室を出て職員室に向かった。古典の授業の後、担任の明智先生に職員室へ来るように言われていたからだ。

 パソコンで作業をしていた先生は、愛蔵がやってくるとすぐに話に入る。予想していた通り、出席日数のことだった。

「事情は事務所からも聞いているし、他の先生にも話しておいた。まあ、二人とも成績は問題ないから大丈夫だろう……補習だけは必ず出るよーに」

 予定が書かれたプリントを受け取ると、仕事と稽古が休みの日はほとんど補習になっていた。

 明智先生は「……休みが取れないんじゃないか?」と、愛蔵のほうに体を向けて尋ねてくる。

 出席日数不足をカバーするためとはいえ、心配してくれたのだろう。この先生は淡々としているし、言葉には出さないけれど、さりげなく気配りをしてくれる。

 今回の補習のことも、他の教科の先生に事情を説明して、特別に補習する時間を作ってもらうために頭を下げてくれたらしい。

「……舞台が終わるまでだから大丈夫です。それに、正直、休んでいられないって言うか」

 舞台に向けている集中力が途切れてしまいそうな気がして、休みの日があっても落ち着かない。だから、台本を読んだり、ダンスや歌の自主練習をしたりして過ごしていた。

 疲れを感じないわけではないが、ライブの前も似たようなものだから、慣れていると言えば慣れている。

 コツンと額を小突かれて、ぼんやりと考え事をしていた愛蔵は顔を上げる。明智先生が手にしているのは、いつもの棒付きの飴だ。

「仕事だから仕方ないだろうが……あんまり無理はしなさんな。夜はちゃんと寝なさい」

(どこのお母さんだよ……)

 愛蔵は笑いそうになりながら、「ありがとうございます」と飴を受け取った。黄色の包みだから、レモンかパイナップル味だろう。

 それから、「そうだ」と思い出して明智先生を見る。

「先生、勇次郎も来ました……?」

「古典の授業の前にな。そういえば、染谷は弓道を始めるのか?」

 愛蔵は「えっ?」と、目を丸くする。そんな話は聞いていない。

「違うのか? 弓道の本を抱えていたし、この学校に弓道部があるかきいてきたから、興味があるのかと思ったんだけどな」

 明智先生は椅子を回して前を向き、パソコンに向かう。昼ご飯はキーボードの横におかれているサンドイッチのようだ。しかも、桜丘高校の売店で時々しかお目にかかれない、幻の『厚切りビーフカツサンド』である。

 入手困難なその品が、コーヒーと一緒にさりげなくおかれていた。

「多分、舞台でやるからだと思います。弓を使う役だから」

 今回二人がやるミュージカルはファンタジー世界が舞台で、旅をする勇者二人がドラゴンを倒すという物語だ。愛蔵の武器はレイピアという細い剣で、勇次郎の武器はロングボウという弓だ。

 それを試せる場所はあまりないため、かわりに弓道をやってみたいと思ったらしい。役作りのためなのは間違いないだろう。

「先生、うちの学校って弓道部あるんですか?」

 愛蔵も勇次郎も部活動には参加していないため、どんな部があるのか実のところあまりよくは知らない。

「いや、弓道場がないからな」

 明智先生はそう答えてから、「そうか……舞台のためか」と納得したように独り言をもらす。

「今度の土曜は、二人とも休みなんだろう?」

「多分……そうだと……」

 スケジュールを思い出しながら、愛蔵はそう答えた。かわりに、その日の午前中は補習だ。

「じゃあ、補習の後は二人とも予定をあけておくよーに。染谷にも伝えておくんだぞー」

「えっ、なんで?」

「特別課外授業だ」

 なにか企むようにニヤーッと笑う明智先生を見て、「ハァ……?」と愛蔵はいささか困惑気味に返事をした。


 いったい、なんの課外授業なんだか――。

 意味がわからないと、眉根を寄せながら職員室を出る。

 廊下で楽しそうにおしゃべりしていた女子たちが、「あっ、愛蔵君!」、「キャアアアアア~~~ッ!」と、賑やかな声を上げながら逃げていった。

(俺は、ライオンかよ…………)

 小さくため息を吐きながら歩き出した愛蔵は、明智先生からもらった飴の包みを剥がす。しかし、口に入れた途端、「うっ!」と口を押さえて握りしめていた包みに目をやった。


(なんで、マスタード味なんだよ~~~~っ!!!!)


***


 土曜日、午前中の補習が終わると、愛蔵と勇次郎は明智先生に言われた通り、学校の裏手にある駐車場に向かった。

 生徒もあまり通りかからないため、待っていても目立つことはない。


(今日は明智先生に飴をもらっても、うっかり口に入れたりしないっ!)

 愛蔵はスポーツバッグの紐を、決意を込めるようにギュッと握る。あの先生がポケットから飴を出そうとしたら、『要注意』だ。

 眉間に皺を寄せていると、スマホの画面を見ていた勇次郎が訝しそうにこちらを見る。

「…………なんでそんな、お腹痛そうな顔になってんの?」

「色々用心してんだよ……危険だから」

 勇次郎は「ふーん」と、興味がなさそうに再びスマホの画面に視線を戻す。そのうちに駐車場から車が出てきて、二人の前で停まった。

 運転席の明智先生が、窓を開いて顔を出す。

「二人とも、後ろなー」

 そう言われて、愛蔵と勇次郎は顔を見合わせた。後部座席のドアを開いて乗ると、助手席にもう一人、生徒が座っている。振り返ってニコッと笑ったのは、一年上の先輩である山本幸大である。

「やぁ、今日はよろしく」

「山本先輩……え? でも、なんで……?」

 愛蔵が驚いて尋ねると、幸大は首から提げている一眼レフのカメラを二人に見せた。

「新聞部の取材をさせてもらおうと思って。あっ、許可はもらってるよ」

 幸大は「そうですよね?」と、確かめるように明智先生にきく。

「そのうち、特集号として校内新聞を出すことも含めてなー」

 ということは、今日の『特別課外授業』とやらは、事務所の承諾済みということだ。明智先生は「二人とも、昼、まだだろう?」と、紙袋を後ろにまわしてくる。

「「ありがとうございます」」

 愛蔵と勇次郎が袋の中を覗くと、学校の近くのベーカリーで買ったパンと飲み物が入っていた。しかも、どれも見るからに甘そうだ。それなのになぜか、助手席の幸大はちゃっかりコロッケパンを確保している。

 明智先生が「出発するぞー」と、車をゆっくり発進させた。


 勇次郎が迷わず手に取ったのは、チョココロネとココアのパックだ。『また、そんな甘そうなものを』と思いながら見ていると、勇次郎が警戒気味に眉根を寄せた。

「なに? 譲らないよ」

 チョココロネを守るように、その手は袋をしっかりと握り締めている。

「誰もほしがってないだろ……」

 愛蔵が紙袋に手を入れて適当につかむと、クリームパンだ。『まあ、これでいいか』と、パンの袋を開けようとしたが、ハッとして手を止める。

(いや、待て……これ、明智先生が買ってきてくれたんだよな……)

 クリームパンに見せかけて、中に入っているのはマスタードかもしれない。

 用心深く確かめていると、勇次郎がココアを飲みながら口を開いた。

「先生、今日ってどこに行くんですか?」

(そうだ、それ、俺も聞いてない!)

 肝心の行き先を、自分たちはまだ知らないのだ。先生は窓の縁に肘をかけながら、ハンドルに手を添えている。安全運転なのか、やけにゆっくりとした速度だ。いつも、運転が荒いマネージャーの車に乗っているから、余計にそう感じるのだろうか。

「弓道場があるところだ。ちょっと遠いけどな」

 明智先生が答えると、勇次郎が少し驚いたように運転席に視線を向ける。弓道をしたがっていたのは勇次郎だ。まさか、先生が連れていってくれるとは思わなかったのだろう。


***


 目的地に到着して車を降りると、駐車場の先に黒い屋根瓦と、白い外壁の武道場が建っていた。明智先生は正面玄関から中に入り、ロビーの受付で用件を伝える。

 奥の事務所から出てきたのは、茶色のカーディガンを着た七十代の男性だ。黒い腕抜きをしているから事務員さんだろうか。そう思いながら見ていると、明智先生はやけに畏まって、その人に深く頭を下げた。

「矢武先生、ご無沙汰しております」

「やあ、明智君。元気そうだね」

 にこやかに言いながら、矢武先生と呼ばれていたその男性は片手を上げる。口ぶりからして、明智先生のことをよく知っている人なのだろう。

「今日はこの二人のこと、よろしくお願いいたします」

 明智先生にグッと頭を押さえられて、愛蔵はあわてて頭を下げる。勇次郎もすぐに同じように頭を下げていた。

「「よろしくお願いします!」」

「はい、よろしい。弓道をやってみたいというのは誰かね?」

 そうきかれて、「僕です」と勇次郎が手を上げる。

「では、とりあえず、着替えていらっしゃい」

 矢武先生は事務所を覗くと、「辻間さん、弓道着、あるよね? 用意してあげてくれるかな?」と声をかけた。「はーい」と、事務所の中から女性の返事が聞こえた。

 


 弓道着に着替えた勇次郎が更衣室から出てくると、「じゃあ、行こうかね」と矢武先生は弓道場に向かう。愛蔵と明智先生、幸大もその後についていった。

 最初、注意事項や、道具の扱い方の説明を受けた後、勇次郎は基本的な動作の練習に入っていた。愛蔵は明智先生と一緒に、離れたところでそれを見守る。幸大は写真を撮るのに忙しそうだ。何枚か撮って、後で選別するのだろう。

 弓を構えている勇次郎の肘の高さを、矢武先生が説明しながら直す。しばらくその様子を見ていると、矢武先生がこちらにやってきた。

「どうですか?」

 そう尋ねたのは、明智先生だ。矢武先生は、「うん、いいね」と笑顔で頷く。

「姿勢が大変よろしい。彼はなにか、他の武道をやっていたのかね?」

「いえ……舞踊の稽古はやっていたと聞いています」

「ああ、それでだね。筋がいい」

 明智先生と矢武先生の話を聞きながら、愛蔵は練習している勇次郎を見る。稽古やレッスンをしている時と同じ真剣な表情になっていた。

(というか、俺は来なくてもよかったんじゃないか? 勇次郎だけで)

 見学だけなら、この場にいる意味はあまりない。そう思って眺めていると、バンッとドアが開く。

「剣道体験を希望している者はどこだ――――――っ!!」

 大きな声を上げながら威勢よく入ってきたのは、剣道着を着た大柄な男性だ。練習をしていた勇次郎もその声にびっくりしたのか、大きく目を見開いてかたまっている。

「あっ、ここです」

 明智先生は愛蔵の手をつかんで、そのままスッと上げた。


(…………………………………………えっ?)


 ポカンとしていると、幸大がカメラのレンズをこちらに向ける。

 カシャッと、写真を撮る音がした。

 


(こんなの、全然、聞いてないんだけど――――――っ!!)

 

 愛蔵はわけもわからないまま剣道着と防具を渡されて、更衣室に押し込まれたものの、勇次郎と違って着方もわからない。

 もたもたしていると、剣道教室の先生が『遅い!』と、しびれを切らして乗り込んできて、あっという間に着替えさせられ、そのまま剣道場に引っ張って行かれた。

 

「さあ、遠慮なくどこからでも打ち込んでこいっ!」

 そう、先生が竹刀を構えながら声を張り上げる。

(んなこと言われたって……っ!!)

 先生の全身からは、どこの山に棲む熊の化身かというような気迫が漲っていた。一歩でも踏み込めば、問答無用であの竹刀が頭に振ってくるだろう。

「どうしたーっ、そんなことでは、弱き己に打ち勝てんぞーっ!!」

 ダンッと踏み込んできた先生の竹刀を咄嗟に自分の竹刀で防いだものの、押されてあっけなくよろめき、ドタッと尻餅をつく。

「痛てっ!」

「ほらーっ、腰が引けてるぞ。その程度かー!」

 挑発するように言われて、愛蔵はグッと歯を食いしばりながら転がっている竹刀をつかんだ。

(俺は……こんなことでは、挫けねーっ!!)

 膝に力を込めて立ち上がると、見よう見まねで竹刀を構えた。「ハッ!」と、気合いを入れて打ち込んだ瞬間、バシッと面を打たれる。

「痛てっ!」

「まだまだーっ!」

(だから、明智先生に関わるのは嫌なんだよ。絶対、ろくな目に遭わねーんだから!)

 金輪際、明智先生からうかつに飴はもらわないし、明智先生の車にも乗ったりはしないと歯を食いしばりながら心に誓う。

「さあ、来い、こわっぱ!」

「こ、こわっぱ!?」

 愛蔵が驚いていると、パンッとまた面を打たれた。

「痛てっ!」

 こっちは素人だというのに、少しも手加減してくれる気はないらしい。容赦のない一撃に涙が滲みそうになる。

(これ、演技の役に立つのか!?)

 

「打たれまくりだぞ。少しはかかってこい! ほらほら! こわっぱ、勇気を出せ!」

(こうなったら、俺の……アイドルの本気を見せてやる!!)

 愛蔵は竹刀を構え、キッと先生を鋭い目で睨みつけた。

 軽快に素早くサイドステップを踏み、『今だ!』とばかりに大きく前に出る。直後、パシッと胴を打たれた。

「痛ってー!!」

「なんだー、その変な蟹動きは! 何蟹のつもりだー!」

(何蟹でもね――っ!)



 散々だった稽古がようやく終わり、体の節々が痛むのを堪えながら弓道場に戻る。

 勇次郎も終わった頃かと思ったが、こちらの稽古はまだ続いているようだった。射場に立った勇次郎は、矢をつがえ、真っ直ぐ正面の的を狙っている。二時間ほどの稽古だったが、すっかり弓を構える姿が様になっていた。

「うん、いいね……これは中るよ」

 離れた場所で見ていた矢武先生が、満足そうに呟いた。

 集中して、矢を射ると勇次郎はその姿勢を保ったまま的を見つめている。離れたところから、幸大がそれを写真に撮っていた。

 先生の言葉通り、放った矢は的に中ったようだ。嬉しかったのだろう。勇次郎の口角もほんの少し上がっていた。


 二人とも稽古が終わり、片付けと着替えを終えて武道場を出たのは、五時をすぎてからだった。挨拶を終えて帰ろうとすると、矢武先生が見送りに出てくる。

「今日はご指導くださり、ありがとうございました」

 明智先生に続いて、愛蔵と勇次郎、幸大の三人も、「「「ありがとうございました!」」」とそろって頭を下げた。

 矢武先生は「はい、お疲れ様でした」と、微笑んでから明智先生の肩をポンッと叩く。

「明智君、元気でね。また、顔を見せにいらっしゃい」

「はい……先生も、お元気で」

 手を振る矢武先生にもう一度頭を下げてから、四人は駐車場に向かった。


「……そっちはどうだったの?」

 勇次郎がこちらを見たので、「きくなよ」とうなだれて答えた。「フフッ」と笑ったのは、そばで会話を聞いていた幸大だ。

「なかなかいい写真が撮れたよ」

「山本先輩、俺のほうにも来ていたんですか?」

「二人の取材だからね」

 楽しそうに幸大が答える。ということは、あの無様な姿もしっかり目撃され、しかも写真まで撮られていたということだ。

 愛蔵は額に手をやって、ガクッとしてため息を吐く。

「そんなに大変だったの? 剣道の稽古」

「大変っていうか……俺……初めてこわっぱって言われた……」

 愛蔵は稽古を思い出して顔をしかめた。目を丸くした勇次郎が、「クッ」と口もとに手をやって笑う。

「こわっぱって…………っ!」

「こっちは散々だったんだよ。お前と違って」

「普通……そんなこと言われないと思うけど。なにやったの?」

「知るかよ」

「くっ……あはははははははっ!!」

 車のところまで来ると、勇次郎は我慢しきれなくなったのか、腹を抱えて大笑いする。

「そんなに笑わなくてもいいだろっ!」

 赤くなって言い返した時、カシャッと写真を撮る音がした。

 愛蔵と勇次郎が同時に振り向くと、カメラを構えた幸大がニマーッと笑っている。

「いいショットだった」

「えっ、ちょっと、山本先輩、今のナシですって!」

「……油断した」

「はい、そこの三人、いいから車に乗りましょー。おいて帰るぞー」

 明智先生が運転席のドアを開きながら言う。

 三人は顔を見合わせてから、急いで車に乗り込んだ。



 勇次郎は疲れたのか、後部座席ですっかり眠っている。その横に座って窓の外を見ていた愛蔵は、ふと運転席に視線を移した。

「明智先生は、矢武先生に弓道を教わっていたんですか?」

「いや……あの先生は、高校時代の古典の先生だ」

 明智先生は前を向いたまま答えた。助手席の幸大も興味深そうに先生を見ている。

「学校はもう退職されて、今はあそこで弓道を教えていると聞いていたから、連絡を取ってみたんだよ。こんなことでもなければ、会いに行く機会もないからな……」

「明智先生の恩師ってことですね」

 幸大が言うと、「まあ、そうだな」と明智先生は笑う。

 外はもうすっかり日が落ちて、窓ガラスに降り出した雨の粒が当たっていた。

「あの先生の言葉がなければ、今みたいに古典の教師はやっていなかったかもしれない……」

 明智先生は「あの頃は、古典をやる意味なんてそれほど……わかっていなかったんだ」と、誰かに語るのではなく、ただの独り言のようにもらす。

「先生はなんで、古典の先生になろうと思ったんですか?」

 後部座席から少し身を乗り出してきくと、答えが返ってくるまでに少しだけ間があった。明智先生はどこか懐かしそうな目で、フロントガラスに当たる雨粒を眺めている。

「……矢武先生が授業で、古典とはその時、その場所で生きていた人の想いで、存在したことの証なんだと話してくれたことがある。それを聞いて、なにかを残すことも、それを次の誰かに伝えることも、きっと意味があることで、誰かの役目なんだろうと思えたんだよ」

 記憶を辿るようにゆっくりと話してくれるのを、愛蔵も幸大も黙ったまま聞いていた。

 明智先生は話を終えると、「そういうわけだ」といつもの飄々とした口調に戻り、それ以上は語らなかった。

 隣で寝ていたはずの勇次郎も、いつの間にか起きていて、ジッと前を見つめている。


(存在したことの証か……)


 これからやる舞台もきっと、そういうものなのだろう。

 自分たちがここにいることを、誰かに忘れてほしくはないから。

 誰かの記憶に、心に、深く、深く、いつまでも残るように。

 持っているすべてのものを注ぎ込んで、全力で、生きていること、ここに存在していることの証を刻んでいく。


 それが、自分と勇次郎が選んだ生き方だ――。

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