終章

姫来と八房

 暑い。


 窓の外には蒼穹。梅雨が明けて日差しが強いものの、教室の中だけはひんやりと爽やかだ。中庭の新緑に巣食うセミが、ジャキジャキ電波ノイズみたいな音を立てて鳴いている。


 教室はからっぽだった。今日は土曜補講。本来なら午前で授業は終わり、他の生徒は帰宅したり部活に向かったりしているのだが、成績の芳しくない八房は半強制的に居残りさせられている。椎名は積み上がった参考書の山を前にして、今にも泡を吹いて倒れそうだった。


「やっつーん」


 後ろから背中をぽんと叩かれ振り向くと、そこには安西が立っていた。見慣れたニヤケ面をしている。それが無性に懐かしくてほっとした。


「おお、安西! もう怪我はいいのか?」


「オーケーよ! もうすぐ部活にも復帰するから、楽しみにしといてよな!」


 安西は陽気にサムズアップしてみせた。


 一連の事件の真相はニュースで報道され、学校でも集会が行われて、八房にまつわる噂や誤解も解けた。


 剣道部も暴行事件の影響で練習ができず、春大会では成績を残せなかったが、今は夏大会に向けて練習に励んでいる。


「大変だったな」


「俺は勝手に色々首突っ込んだ結果だったから別にいーの! ってか、やっつんのほうこそ、俺が入院してた間、きららちゃんと委員長とで一悶着あったんだって?」


「ああ、まあな」


 安西はわざとらしく肩をすくめた。それに合わせて空笑いを漏らす。


「んで……、こいつもお前に言いたいことがあるってさ!」


 安西が半身を翻す。その後ろに立っていたのは――紺野だった。ばつの悪そうな顔をして、落ち着きなく視線を彷徨わせている。


「八房。お前を疑ったりして、悪かった」


 紺野は頭を下げた。


「赦さなくていい。俺はお前にそのくらいのことをしたんだから」


 絞り出すような低い声で言われた。その姿に、瓦礫の中で広瀬と再会した時のことを思い出した。


「……いいよ。お前だって、安西が心配だったからあんなこと言ったんだろ?」


 軽く肩をすくめた。


「これからも俺の友達でいてくれよ」


 工場跡での戦いが終わり、環城梓は警察に保護され、取り調べを受けた後送致された。不幸な生い立ちによって罪を犯した未成年ということで、贖罪を行いながら然るべき支援を受けられるようになったらしい。


 麻薬プラントの上層部については、何とか一命をとりとめた弓子からの情報を基に金田や天崎が追及し、壊滅に至った。繊維工場跡地は取り壊されて大型スーパーが建設されることが決まった。


 ちなみに赤坂は辞職した。生徒への影響を鑑みてということで理由は明言されていないが、「灰戸によって騙され利用されていたとはいえ、生徒と関係を持って事件の真相解明を妨害してしまったことが原因だろう」ときららは推測している。犯人確保のために頑張ったんだから感謝状とか貰ってもいいと思ったのだけど、きららが無茶苦茶やったので、貢献としては差し引きゼロらしい。


 肝心のきらら本人はというと、廃工場を爆破した件で一週間謹慎処分になり、それが明けて登校する頃には灰戸に対しての興味のすべてを失っていた。一事が万事こうなのだろう。


 ただし傍若無人な行動が少しはなりを潜めるようになったのは、変化といえるだろうか。真っ黒なセーラー服を着てたった一人の異物だった日々と比べれば、だいぶ世界と調和しているように思う。


「ところで、紺野と安西が喧嘩してたってのは何だったんだ?」


「あれはさぁ、サッカー部の試合前だってのに後輩が怪我しちまって、その助っ人に剣道部から八房借りられねぇーかって話を持ち掛けたんだよ。したら、安西が、『ブロック大会近いのに大将を貸せるわけないだろ!』って怒ってさぁ、んで喧嘩」


「へへっ紺野、悪かったな! あの時は!」


「お前が原因で喧嘩になったとか言いづらくてさぁ。んま、悪かったな」


 紺野がひらひらと手を振った。


 そうして、紺野と安西が連んで下校していく後ろ姿を、穏やかな気持ちで見守っていた。


二人が去ってしまうと、教室は静まり返る。そろそろ勉強を切り上げて帰ろうかと席を立った、その時。


「お勉強進んでる?」


 聞き慣れた声とともに、腰にこつんと何かが当たった。机に落ちたそれは、適当に折られた紙飛行機だった。きららが中庭から投げてきたらしい。


 彼女は一目散に駆け寄ってきたかと思うと、窓枠に足を載せてひょいと飛び越え、教室に侵入してきた。


 まぶしい日光が、白いブラウスとジャンパースカートを輝かしく照らし出している。ようやく夏服が届いたらしい。


「その調子だとダメそうだねえ」


「そーだよ。ったくさあ、なんで平均点なんか出すかな」


「なるほど」


 きららは顎に手をやり、考え込む仕草をする。


「確かになぜ平均や真ん中を気にするんだろう。一番下から二番目の数値とか、上から五番目の数値とか誰も気にしないよね。一番上と下と真ん中しか見ようとしない。そういうふうに教育されたから? それとも人間という種族の性質なのかな。どう思う、ワンちゃん?」


「ワンちゃん?」


「八房っておバカな大型犬っぽいから」


 八房は口を尖らせた。不名誉なあだ名にもほどがある。


「じゃあお前はいいとこ、おひいさまだな」


「へえ、皮肉を言えるようになったじゃない」


 『素襖姫来(すおうきらら)』はさもおかしそうに笑った。名は体を表すとはよく言ったもので、彼女の場合は傍若無人であまのじゃくな姫来たりというところだろうか。そして彼女は、


「八房、お手っ」


 姫来の手のひらの上に手を重ねてやる。


「おすわりっ」


 やれやれとため息をつきながらもそのまま椅子に腰掛ける。すると、姫来が八房の太ももの上に跨ってきた。純白のブラウスからふわっと女の子の匂いが漂ってくる。肉付きのいい豊満な体だけあってずっしり重い。


「じゃあ最後は〜、ちんちん!」


「やらねえからな馬鹿! 悪ノリもいい加減にしろよ!」


「あはは! そんなことしてると、また財布を落とすよ。今度は拾ってあげないからね」


 彼女はケタケタ笑って八房の膝から飛び退いた。悪びれる様子もない。


「だって、『ワンちゃん』って、お前の名前によく似合ってるじゃない?」


 言われて唇を尖らせる。


 『八房』という一風変わった古風な名前は、母方の祖父が名付けてくれたものだ。


 江戸時代後期、曲亭(きょくてい)馬(ば)琴(きん)によって執筆された長編伝奇小説・『南総里見八犬伝』。祖父はこの古典の大ファンで、作中に出てくる、忠義を尽くした霊犬の名前を孫息子に付けたのだった。


 その霊犬八房は常に、伏姫(ふせひめ)というお姫様に付き従っていたらしい。

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