何より眩しい太陽

 灰戸はしばらく俯いていたが、それからためらいがちに椎名の方へと手を伸ばした。


「……私の負けよ、椎名くん」


 灰戸は黙って身を寄せる。椎名もそれを受け入れた。彼女の手は自分のそれよりずっと小さい。指先に力を入れて抱き寄せても彼女は何も言わなかった。手を握ったのは一瞬なのに、その時だけは時間の流れが緩やかになったように感じた。


 そのはずだった。


「っ、避けて!」


「あ」


 次の瞬間、灰戸はその顔立ちを焦りに塗り替えて椎名ときららを突き飛ばした。銃弾の音が轟き、目の前の華奢な身体が割れて、血飛沫を吹き出して眼前に倒れ込む。磁器のように白い肌が血で汚れている。そしてそのまま動かなくなった。


 ハイヒールが床を踏み締めるコツコツという足音が近づいてくる。椎名は振り返るより先に、ムスクの匂いで、その人物が誰なのか気づいてしまった。


「あら。本当なら侵入者さんたちを撃てそうだったのだけれど、邪魔が入ったわね」


 きららは素早く振り向いて、その声の正体を目にする。建物の暗がりから出てきたその姿は、まさしく弓子だった。彼女は冷徹な瞳で銃を携えていた。


「全く。最後の最後まで使えないわね」


 灰戸は床に転がったまま動かない。弓子がその肉体に蹴りを入れて足蹴にすると、華奢な白い肉体は横に転がった。銃創はそこだけめくれあがって、赤黒く腫れぼったい肉を露出させている。そこから流れ出した血が床にゆっくりと広がっていった。もはや息も絶え絶えだった。


「へえ、あんたが麻薬プラントのリーダー?」


「そんなところね」


 弓子は微笑んだ。彼女の背後の窓から月光が差して、立ち姿を妖艶に照らしている。


「貴方たちは勘違いしているのよ、私たちが扱っているのはただの麻薬ではないわ。一九八四年、日米合同研究チームによりラオス原産のスパイスを主原料として開発された医療用鎮痛剤。それを元にした安全な薬よ。これさえあればいずれは誰もが不老を手にすることさえ思いのまま」


「でも法認可されてないじゃん。その鎮痛剤だってさあ、高温下で保管したら変質することが確認されて以来、規制されてるはずだよね」


 きららが問いかける。あからさまな時間稼ぎだ。椎名は固唾を飲んで弓子の隙を探すものの、とても突破できそうにない。


「十五年ほど前から人体実験を行っていたから、依存性は格段に低下しているわ」


「なんだよそれ⁉ わけわかんない薬のためなら、人を殺したり灰戸の人生をめちゃくちゃにしたりしてもいいってのかよ⁉」


「大いなる計画のためには小さな犠牲もつきものよ。今のようにね!」


 弓子が銃口を向ける。


撃たれる!


 ――しかし瞬間、弓子はすんでのところで姿勢を崩し、床へと倒れ込んだ。背後にあった窓の外から誰かが彼女に飛び蹴りをかましたのだ。拳銃は床を滑り、反対側の掃き出し窓から滑り落ちて見えなくなった。


 現れた青年は、荒々しく上着を脱ぎ捨て、首を鳴らした。逆光でその姿がよく見えない。だが、


「時間稼ぎサンキューな」


 椎名はその声に聞き覚えがあった。広瀬礼央。


 しかし弓子は素早く体勢を立て直し、懐から刃物を取り出した。その隙にきららと椎名は、灰戸の体を抱えて瓦礫の後ろに隠れた。広瀬は弓子から距離をとり、それに倣う。


「八房、動けるか?」


「俺は大丈夫。だけど灰戸が撃たれた。何とか外に逃がしたい」


「ぼくが灰戸を連れて行こうか? この倉庫の図面も頭に入ってるし、後々の処理もあるしね。なんとかなるでしょ」


「だな……。椎名、オマエはどうする? オレは時間稼ぎでここに残るが」


「俺も残る」


 ここまできて広瀬だけを残すというのは忍びなかった。椎名の言葉にきららは頷く。それからこちらに歩み寄ってきてその肉体をやさしくかき抱いた。みだれた髪を整えるように、優しく撫でてくれた。


「椎名。ずっと前、『世界が鈍色に見える』って言っていたよね」


「……ああ」


「でもそう思っていたのは、輝きを感じられなかったのは、椎名自身が何より眩しい太陽だったから。人間も場所も現象も、君の目に映るものはすべて君自身の光を受けてかがやく。君がいると、そこはどんな場所でも日向になるの。だから椎名、もう思い込みの箍を外してもっとめちゃくちゃに灼き尽くすべきだ」


「何を」


「すべてを。忘れないで、君は強い!」


 いつもの自信満々な言種に、思わず安堵の笑みが漏れた。


 それからきららは灰戸を抱き上げて、夜の闇の中へ溶けて行った。椎名は広瀬と二人きりになる。彼になんと言っていいのか分からなかったし、そもそも自分に何か言う資格があるのかもわからなかった。項垂れる大柄な肉体を見て、広瀬は片頬で笑った。


「八房、お前オレが虐められてるって思い込んでたらしいな。悪いがそれは誤解だ」


「な……?」


 椎名は首を傾げる。


「中二の夏、オレは負傷してて、足を怪我して引退したんだよ。山村と折尾と揉めてたのは事実だがイジメなんて一方的なものは受けてねェ、やられたらやり返してたしな。んでその後グレて家出した。以上。打ち込んでたものに挫折してグレるなんざよくある話だろ? お前も部活も一切関係ない」


「……ごめん、広瀬。俺は、少しだけお前を疑った」


「はぁ」


「怒らないのか?」


「いや、お前は灰戸達に騙されただけだろ。オレはお前のこと、大事なダチだって思ってる。今でも」


 彼はさらりと答えた。


「ま、詳しい説明はあとだ。まだあのババアがいる。ほらよ、これがお前の得物だ」


 広瀬は何かを椎名に投げてくれた。僅かな明かりに目を凝らすと、それは鉄パイプだとわかった。廃倉庫のどこかから適当に見繕ってきたものだろう。


 もはや言葉は必要なかった。二人は背中合わせになって鉄パイプを構え、弓子を見据えた。


 不思議と死ぬことはもう怖くなかった。傷つけられることも怖くなかった。今はただ、目の前の絶体絶命の状況を打ち破らなければ!


「広瀬、行くぞ!」


「おう。足引っ張んなよ!」

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