ずるい

 椎名八房は目を覚ました。瞼を閉じても開いても闇が広がるだけで変わらない、そこはかび臭い廃屋の中だった。意識が鮮明になっていくのと同時に、関節と筋肉の痛みも蘇ってきた。ずっと縛られているので身体が上手く動かない。


 灰戸の姿はいつのまにかなくなっていた。恐怖より困惑が勝っていた。椎名にとって恐怖とは、対象をまったく理解していないから感じるものだ。灰戸の目的が分かった今なら怖くない。今は何とかしてここから抜け出さなければ。


 耳を済ませると、どこからか散発的に銃声と何かの機械の駆動音が聞こえてきた。途方に暮れて壁にもたれ掛かる。


 きららに会いたかった。暴れん坊で問題児で台風の目で革命家で傍若無人で縛り切れない女。少なくとも椎名ときららにとって、ここは地獄ではなく現実だ。残酷なぶん自由なのだ。だからあきらめるな――そう思ったらふと唇からこぼれ出ていた。


「こんな時、きららがいればな……」


「――呼んだ?」


 祈るようにつぶやくと返答があった。慌てて振り向くと、そこには黒いセーラー服に長い黒髪の少女が宵闇に溶けるように佇んでいた。後ろでシノが尻尾をふっている。


「放っておいてごめんね。寂しがらせちゃったかな」


 割れた窓を背にして、マイナスドライバーを手でもてあそんでいる。音がしなかったので全く気付かなかった。


「これ三角割りって言うんだよ知ってた?」


「きらら……! どうしてここに」


「広瀬が協力してくれたの。半グレグループにいたころにこの組織を追っていたから、施設の規模や内部情報に通じてたんだ」


「広……? いや……、そうじゃなくて。どうして罠だとわかっていてもこっちに来たんだ?」


「簡単。面白そうだからさ! 実際に楽しかったしね」


 彼女は胸を張って得意げに言い切った。月光に照らされたその横顔が懐かしくて愛おしくてしょうがなかった。 


 割れた窓ガラスを乗り越えてきららが中に入ってくる。星明りに煌めくガラス片を靴底で踏みしめる音が聞こえた。


 彼女は懐から十徳ナイフを出し、椎名の拘束を外したかと思うと勢いよく飛びついて、椎名の肉体を両腕でかき抱いてきた。うなじに触れた指が温かかった。


「それにね、生きててよかったよ。あんなこと言ってごめんね」


「謝るのは俺の方。お前の言ってた通りだった。安西を殴ったのも、薬物プラントに関係してたのも灰戸だった。灰戸の裏の顔が、あんなものだったなんて……」


 椎名はしびれる足で立ち上がり、肩で息をした。呟きにきららは切り返す。


「裏の顔じゃない。あいつ、小さいころから他人の顔を伺いすぎて、性格形成に失敗して、安定した人格そのものがないんだよ。自分の好きな物も嫌いなものも、やりたい事もやりたくない事もわからない。だから社会規範と人間観察をもとに、異なる人格を意識的に作り上げてきた」


「その通り」


 声と同時に扉の開く音がした。二人が振り向くと、倉庫の外、降りしきる霧雨の中に灰戸が立っていた。真っ白な衣服を赤黒い飛沫で濡らしている。きららは目をぱちくりさせて、


「それ、お前の血?」


 灰戸は唇を噛み、きららを睨みつけた。


「……ずるい」


「はい?」


「わざわざ京都にまで行って私のこと調べたんだってね。私もきららちゃんのこと調べたよ。金持ちの家に生まれて大切にしてくれる家族もいて才能にも恵まれてるのにどうしてそれを破壊するような行動をするの。そんなに幸せなのに! その尊さも知らない癖に!」


「それは灰戸の感想でしょ。言っとくけど、ぼくがもらってきた物は、ぼくにとってはいらないものだったよ」


 灰戸は悲しさがあふれて決壊したみたいな顔で切なげに笑った。


「ずるい……私には何も無いのに……私だって……自由になりたかった……」


「じゃあ、なればいいじゃん」


 きららは切って捨てる。きっと永遠に交わらない平行線なのだろう。


 しかし椎名は、昨晩の告解を聞いて、とても他人事には思えなかった。


 きららと出会うまでは、椎名も灰戸のように考えていた。いまさら何をやってもすべて無駄。人生の本質は誰しも苦難を乗り越えることにあり、満足できることなどありえない。そう思い込んで、昔の過ちを心のどこかで責めながら、鈍色の日々をやり過ごすように生きていた。


 けれどきららと出会った今なら違う。どんな場所にいても、お前が本当にやりたいことは何かと、彼女が問いかけてくれる。


 ――誰かに心を開くのは怖い、本当は全部から目をそらして逃げたい。でも逃げない。ここで逃げてはきららも灰戸も俺も幸せにならない。


 椎名は自分の意志で灰戸を信じたのに、ちょっと自分の期待から外れただけで捨てるなんて、利用してるみたいで不誠実だ。人に対して誠実な自分でいたい。自分の望む自分でいたい。友達を護れる人間になりたい。形から入るのでいいんだ、もう後悔したくない。


「環城。お前を簡単に許す気はない。でも灰戸梓は俺の大事な友達だった。梓が苦しい思いをしていたら俺だってつらいし、本気で守りたいと思ってた」


 灰戸は愛情が有限だといったがそれはうそだ。彼女は、椎名のような『普通の子供』が食らったらとても立っていられないような凄絶な過去を経験して心が麻痺している。受け取る器に穴が開いていたら、いくら愛を注いでも満たされない。その穴をふさぎたかった。


「だから、この世に生きてるうちはひとりぼっちなんて言うなよ。五年後も十年後もずっとこんなことを繰り返すつもりなのか? 今みたいに、自分を危険と悪意に晒してちゃ何も解決しない。ちゃんと罪を償って、お前の人生を生きてほしい」


 そして彼女に手を伸ばした。うすべったい肉体がひどく頼りなく思えた。この機会を逃したら、彼女はもう二度と手の届かない遠い所へ消えてしまうような気さえした。

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