10章

廃工場にて

 午前三時、風の強い夜だった。駅前の廃墟にひとりの影があった。ここは数年前まで繊維工場として賑わっていた施設だが、その面影は既にない。空を見上げれば、はるか頭上で鳶が旋回していた。


 路面には苔むした倒木が放置されて歩道と車道を区切っていた。その倒木の傍らに、薄手のパーカーに身を包んだ細身の姿があった。鋭い視線は前方――道路の先にある廃墟へ注がれている。錆びたシャッターの先には、広々としたガレージがある。倉庫内に人気はなく、静まり返っている。


 非常階段を上って中に侵入する。ここはすでに無人になっているようで、がらんとしている。


 誰かいるのかと左右に走らせた視線に応えるように、壁際に置かれていた大型機械が動き出す。発電機は轟音を響かせて稼働し、天井の電線と繋がっている。発電は問題なさそうだった。天井からぶら下がった照明器具が、音もなく煌々と明かりをつけた。


 発電機のすぐ後ろには制御盤とモニタが並んでいる。モニタには監視カメラの映像らしきものが映されていた。パーカーを着た細身のシルエットの背後に、一人の少女が佇んでいる。


「ふふっ、驚いたかな? きららちゃん」


 人影が振り返ればずらりと並ぶモニタの前に灰戸がいた。焦燥をごまかす様に微笑んでいた。


 灰戸は懐からハンドガンを取り出して構えた。素早く辺りを確認し、細身の人影に即座に銃口を向ける。顔はフードで隠れていて、どんな表情をしているのかはうかがえない。


 ――椎名に言ったように、きららのことが気にかかったのは嘘じゃない。この社会に居場所のない同類は見ればわかる。彼女は同類だと思って興味深かった。


 でも椎名とのかかわり方を見て、こいつは自分とは別物なのだと気づいてしまった。


 きららは恵まれた環境で何不自由なく育った異常者。親の金で食べてきた癖に、義務を果たさず理想を語る子供。環境によって歪むしかなかった灰戸からすれば憎悪と怒りの対象だ。模倣しきれない。


「きららちゃん、あなたの努力、ちゃんと踏み躙ってあげるから。おねがいだからそのまま死んでね」


 灰戸はささやく。銃口を向け引き金を引くが、弾丸は全て空を切る。細身の姿は弾けたように跳ねて、そのまま走り去った。しかし、


 ――おかしい。きららはこんなにも身軽だっただろうか? 転校初日のバスケの試合で彼女の運動神経の良さは知っている。だがこれではあまりにも動きが……洗練されすぎている。


 そう思って銃をかざした瞬間、突風が吹いた。上着のフードが脱げると、きららとは全く違う顔があらわになった。


 そこから覗いたのは、短い眉に三白眼、きららとは似てもつかぬ精悍な顔立ちの青年だった。彼は灰戸を見て満足気に片頬で笑った。


「なっ……⁉」


 ――誰だ?


 その姿に灰戸は見覚えがない。後ろ手に飛び退き、それから気づいた。きららに嵌められたのだと。


 灰戸が盗聴した内容では、彼女は今日の夕方にひとりで来ると聞いていた。それがこの明朝になって誰か知らない男を伴っている。


 思うにきららはとっくに灰戸の盗聴に気づいていて、その上であえて偽の情報を掴ませて泳がせたのだ。


 男がつぶやく。


「てめーが灰戸梓か」


 気づいた時には遅かった。パーカーを着た男は灰戸の背後に立っていた。青年が放った回し蹴りが、灰戸の側頭部を打ち抜く。景色がぐらりと百八十度回転し、彼女の体は廃屋の中に吹っ飛ばされていった。しかし、


「――弓子さん!」


 監視カメラを見上げて声を張り上げると、轟音とともに天井が裂けた。男はいきなり爆ぜた天井の瓦礫をよけるべく、手足を折り曲げるようにして床に転がっていく。灰戸はそれに構わず倉庫へ向かった。


 ――やられた! これはきららの罠だ。彼女と似た服を着せた替え玉にすぎず、本物の彼女は倉庫の裏手から椎名の奪還に向かっていることだろう。

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