空っぽ

 真っ暗な倉庫の中で二人は暫く黙っていたが、椎名は徐に切り出した。


「……お前に会いに行く直前、きららに『他人の死なんかどうでもいい』って言われた。その時反吐が出そうだったけど、それがきららの価値観なんだ、きらららしいって納得することはできた。でも今は違う。……俺の知ってる灰戸はこんなことしない。お前は『誰』だ?」


「ありがとう。あたしとしても、椎名くんはいつも灰戸梓の役に立ってくれたから、仲良くしたかったんだけどな。残念だね」


 まるで他人事のように返す。


「あたしはね、椎名くんが思うような聖人君子じゃないのよ。何にもない空っぽな人間なの。あなたが心配するようなことは何もないし、何もできやしない。私達、お互いに引き際を誤ったの。私がどんなに汚い存在なのかよくわかったでしょう?」


 椎名は俯いて黙っていたが、それから徐に切り出した。


「そんなこと思ってない。誰でも深く関われば同じように汚いと思う。聖人君子のまま生きている人間なんかいねぇよ」


 もう我慢できなくなって逞しい体に馬乗りになり、殴ろうと思ったけど、それをやめて抱きついた。椎名はその顔を覗き見ようとして、自分の顔にぽたぽたこぼれてきた雫を眺めた。いつの間にかほろほろ泣いていた。これは愛なのだろうか?


「……どうしてわからないの。最初からいないんだよ、灰戸梓なんか! お前が友達だと思ってる人間は、どこにもいないただの作り物なんだ……」


 隠し事をやめて本当のことを言った瞬間、急に恐怖が押し寄せてきて手指の先がずっと冷たくなり全身が震えてきた。まるで獣の前で無防備な裸体を晒したようで恐ろしく、いますぐ逃げ出してしまいたくなった。きららが来たらあの子もあなたも殺して私も死ぬと叫び、どうせ私なんてと捨て鉢になり、それから椎名に縋りついてごめんねを繰り返しながら情けなく鼻をすすった。


「ごめんね。ずっと隠してた……隠し事ばっかりしてた。私と弓子さんは本当の家族ではないし、あたしにお姉ちゃんなんかいない。名前も、『灰戸』っていうのは嘘……」


「……どうしてそんなこと俺に話すんだ」


「どうして、って……。そっか……どうしてかしら……」


 ごまかす様な乾いた笑いとは裏腹に、語尾が涙で滲んでいく。いつのまにか泣き出してしまっていた。こんなこと話してる場合じゃないのに抑えられない。


「あたしのせいで、あんたをこんなことに巻き込んでしまった」


「お前は追い詰められてるからそんなことをしたんだ。お前が俺の事をどう思っていようと、お前の正体が何者だろうと、そんなの『どうでもいい』よ。俺はお前にこんなことやめて欲しい」


「……あたし、なんかに、そんなこと言っちゃだめよ、椎名くん。愛情は有限だ。愛すれば愛するほど踏み躙られる。与える相手は選ばなきゃ」


 しゃくりあげながら、掠れた声で告げた。


 生きているだけで十分苦しんでいるんだから、全身を貫く矢が一つ増えたところで既に致命傷なのは変わりない。憎まれても責められてももう食傷気味で、さらし者にされても、一生をかけて呪い怒ってやると言われても特に何も感じない。父親を殺した時も友人を手にかけた時も金魚が死んでいた時も、罪悪感など抱けなかった。


 なのに椎名を前にすると感情の全てが乱れてしまう。愛されることも救われることも期待なんかしていなかったはずなのに、いざ目の前に突きつけられたら、喉から手が出るほどほしくなってしまった。


「椎名くんに軽蔑されるつもりでいた。軽蔑されたかったし断罪されたかった。私は人を殺めようとしたのに、その罪を椎名くんに着せようとしたのに、なんで……? 私がされてきたこと、それがあたしに何を与えて人格がどうなったかってこと、全部知ってるくせに、なんでそんなことを言うの……」


 監視という名目で椎名八房を知れば知るほど、彼なら自分を救ってくれるかもしれないという期待、そんな彼に濡れ衣を着せた自己嫌悪と罪悪感で感情が滅茶苦茶になっていた。


 邪魔になってきた椎名を赤坂に轢かせようと、デートに連れ出したことがある。あの日、カラオケで自分の裸体を見せて、醜い真実に怯える姿をせせら笑ってやろうと思ったのだ。けれど彼は怯えたり逃げ出したりしなかった。いつも明るい彼からは想像できないような表情で、灰戸を傷つけた存在に対して『本気で怒っていた』。醜く無力でなんの価値もない『灰戸梓』なんかのために、必死になって。


 それでとうとう気づいてしまった。なんて愚かなことをしてしまったのだろう。


あたしは椎名八房のことが嫌いなんじゃない。彼が好きな『私』のことが大嫌いなんだ。だから、椎名を車に轢かせる計画を、自分で中断させてしまった。夜の病院で彼を殺すことができなかった。


 椎名は単純で明るくて人間のことが大好きだ。周りに人がいればそれだけで輝く。だから、きららや自分のような、しがらみを抱えた人が集まるのだろう。


けれど今だけはいっそ嫌いになって罰してほしかった。なんでもいいから椎名に傷つけられたい。そうすれば、中途半端に救いを諦められずに苦しみ続けることもなくなる。


「椎名くん、私と一緒に死のう。そうしたら、やがて意識が体をすっと離れて、深い眠りに落ちていけると思うから」


 コンクリートの地面を見つめながら呟いた。ふざけた気持ちはみじんもなかった。


 自分はきっと一緒に地獄に堕ちてくれる人を探しているのだと思う。本当に不幸な奴が望むのは救いではなく共感だ。同じ地獄を見てほしいのだ。自分の心は怖がりで、愛のためになら死ねるけれど、愛し続けるより死んだ方が楽だ。


 それを聞いた椎名は逆に不安そうな顔をしていた。


「しねえよ、そんなこと……」


「……そう言うと思った」


 この青年はいつでも健全で、健康な精神の持ち主だから、梓を憎むこともしなければともに地獄に堕ちることもしてくれない。罰を与えてくれないというのは、自分へのこの上ない罰だった。


「でも私達、どうせ上の人たちに殺されるんだよ。私は失敗したから、椎名くんは知りすぎてしまったから」


 椎名の隣で小さく縮こまってうつむく。そして座ったまま彼に寄りかかった。


「もうだめなの。何をやったって逆らえないの」


 そう言って、灰戸はそっと椎名の頬に手を添えた。彼は抵抗しなかった。彼の唇に自分のそれを重ねる。


 椎名くん――どうか私をくいとめて。現世に食い止めていて。

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