死ねばいいのに

 灰戸は物置へと足を伸ばした。重い扉を開くと、外から漏れた月明かりが中の様子を照らし出す。コンクリートの床の上で、椎名八房が四肢を縛られて転がっていた。




 椎名八房とは檜山高校に入学してからの知り合いだった。始業式当日の自己紹介で、内容はもう覚えていないけれど、何か適当なギャグを言って周囲の笑いをとっていたことを覚えている。体育の二十メートルシャトルランでは百二十回こなしてクラスの最後まで残って、ラストにバク宙決めて歓声を浴びていた。人気者の代名詞。灰戸がどれだけ望んでも手に入らない、『正解』の人生を送っている人間。けれど、そんな学生は世界にいくらでもいる。それだけなら自分もこの男に関心を持つことはなかっただろう。


 問題は椎名がなぜかこちらに好意を向けてくるようになったことだ。彼の存在を意識せざるを得なくなってしまった。


「俺も文化祭委員になったんだ。よろしく!」


 朗らかに笑いかけてくる椎名の後ろで、安西や紺野達が冷やかすような目線を向けてくる。椎名は直情的で感情を隠すのが下手なタイプなので、彼の片想いは友人内では公然の秘密になっているらしい。


「ふふっ、よろしくねっ、椎名くん!」


 媚びた甘ったるい声で応え、目尻を細めて笑みを装う。内心うんざりだった。


 彼らはクラスの中心グループだ。特にリーダー格の紺野は、身内相手には頼り甲斐があり明るい性格だが、敵や格下とみなした相手に対しては態度を一変させて冷酷になる。ここで彼らの心象を悪くするわけにはいかない。


 それに。顔立ちが整っていて発言力もある紺野、クラスカーストを認識していないかのように分け隔てなく振る舞い運動神経抜群の椎名のような男子たちは、女子からも密かに人気があるのだ。女社会で余計な嫉妬ややっかみを買っても面倒なので、彼らとの会話には神経を使う。


 面倒なことになった。


 ――見透かされてる片想いって不毛だけど楽だものね。私が文化祭実行委員を押し付けられたのを見かねて、手助けをしたつもりなんだろうな。でも、ばればれの片想いしてきてる下心丸出しの相手と一緒に作業をしたり、クラスメイトにしじゅう冷やかされたりする肩身の狭さを想像できないの? ほんと、視野が狭くて独善的でおめでたいね。


 今のきみ、本当に気持ち悪いよ。


 とっくの昔に封じたと思っていた『嫌悪』『軽蔑』『嫉妬』『劣等感』という感情を呼び起こしてくれたという意味では、自分は椎名に感謝すべきなのかもしれない。


 ――あたしの存在は、お前の無謬な幸福のおまけか?


 ――あたしのことなんか何も知らない癖に、私のことを好きだなんて言うな!


 ――『灰戸梓』なんかのことがそんなに好きなら、お前があたしの代わりに不幸になってしまえ!


 何度歯噛みしたか分からない。椎名八房と一緒にいるとただただ疲弊させられる。お前は灰戸梓の心に土足で踏み込もうとしている。お前の好きな少年漫画のヒーローごっこのつもりか。死ね。死ね。死ね。死ねばいいのに。消えればいいのにな。


 どうかあたしの目の前から消えてくれと祈った。あたしのことが大好きな、あたしの大嫌いな男。


 しかし運命の歯車は彼女を許さなかった。異常なまでに情報通の安西に薬物取引のこと、鍵の隠し場所がばれてしまったのだ。弓子にばれたらどうなるかわからない。焦った灰戸は、余った薬物を屋上の貯水タンクに入れて証拠隠滅を図り、安西を体育倉庫に呼び出して脅迫しようとした。だがタイミング悪く椎名がやってきたので安西を殴ってしまい、彼の体を踏み台にして屋上までの鍵を隠すことしかできなかった。


 混乱と恐怖に苛まれる中、情交関係にある赤坂に協力させて、お人よしの椎名に罪を擦り付けようとした。『灰戸梓』という偽りの人格に対する椎名の好意には気づいていたから、何とかそれを利用しようと茶道部に誘ったりデマを流したりしていた。車に轢かれかけたのだって、赤坂に命じてやらせた自作自演にすぎない。


 結局夜の病院では彼を殺すことはできなかった。だが銃弾は彼の足を掠め行動不能にすることはできたので、組織で使用している廃工場の敷地に監禁することにした。逞しい身体の至る所が傷だらけで、痛々しい姿になっている。彼は殴られ蹴られ、酷い目に遭わされていた。抵抗したら友人たちや家族が酷い目にあわされるのがわかっているからされるがままだ。


「あと数人始末したら、この町を去るつもりだったんだけどね。よけいな手出しをするから……」


 呼びかけに、大柄な肉体がピクリと動いた。眩しそうに目を細めて灰戸の方を見ている。


「椎名くん、もうお腹すいたかしら?」


 今この状況で、食べ物をもらう気にもならないのだろう。椎名が首を左右に振ると、灰戸は唇を綺麗な円弧にして微笑んだ。


「そっか、じゃあまだダメね。私、人を殺すときは、その人が空腹になってから殺すって決めてるのよ。死体を解体するとき内臓が臭くないから」


 そう言ってしゃがみこむ。


「大丈夫。ひどいことしないよ」


 椎名の唇からガムテープを剥がし、噛ませられていた縄を取り外した。その仕草はとても優しいものだったが、残酷な色を含んでいた。どこか虚ろな目で椎名の隣に座った。


「頼りがいのあった椎名くんが、こんな風にボロボロにされてしまうなんてね」

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