9章:環城梓

鏡よ鏡

 環城(たまき)梓が生まれ育った公立団地は、さながらサナトリウムだった。隣室の老人は痴呆が始まっているようで、いつも壁にチョークで幾何学模様を描いていた。同じ棟には、フィリピンパブで働くホステスたち、生活保護を受けているアル中、昼間から団地を徘徊する(おそらく知的障碍持ちの)無職などが入居している。


 団地の入居には年収の審査があり、一定以下のレベルでないと契約できない。そんなだから老朽化したコンクリートの中には多様な形の底辺が入居していて、それぞれ緩やかに死に向かっていた。梓の部屋も例外ではなく、薄よごれた畳の間を縫って堕落のにおいが立ち込めていたのだ。


 小学校の二年二組には、『かわいそう』な家庭の子どもを避けるような雰囲気が確実にあった。どこか外に出て遊ぼうという話になるたびに、「でも梓を誘うのはかわいそうだよ」とためらう友達がいた。周囲で問題があると、根拠もなく梓を疑うやつが必ずいた。


 けれどそれを家族にいう事はできなかった。


 梓は没落した名家の出身だった。酒浸りの父からは実家の再興・将来を嘱望され、殴る蹴るもあたりまえに厳しく躾られていた。家族を嫌いになりたくない、家族が嫌いという相反する感情と、他人にはそれを隠そうと振る舞ったことから心が壊れ始めていった。その頃から記憶が途切れることが増え、医師は彼女に乖離症状が出ていると診断した。けれど、人によって『異なる仮面を付け替える』なんて幼少期からやっていたことだから、何とかなるはずだと言い聞かせた。笑われないように。騙されないように。


 やがて母親は失踪し、父親は仕事もせず女遊びばかり。梓は耐えかね、泥酔した父親を風呂場に誘い出し、転倒して溺れているところを放置。故意の殺人を事故死に見せかけた。


 その後、梓は父方の祖父母に引き取られることとなった。しかし祖父は病死し、唯一残された家族である祖母は椎間板ヘルニアを悪化させてとても孫の世話ができる状態ではなくなってしまった。梓は公的機関の完璧な対応で児童養護施設に移籍した。


 移籍した先の施設では、弓子と名乗る職員が、まるで保母のように女児たちの身だしなみを整えては言い聞かせた。私の手駒になりなさい。この時点で、『ここの施設は狂っている』と気づくべきだった。梓たちが送られた施設は反社会的組織の貧困ビジネスの隠れ蓑で、麻薬組織の支配下として人体実験が行われていたのだ。気付いた時にはもう既にすべてが手遅れだった。


 今でも脳裏に染み付いている、小学校卒業式の夜。施設で大規模な人体実験が行われたのだ。施設の子供たちは次々と倒れていった。


「たすけ……てぇ……っ」


 酸素を求めて口をぱくぱくさせ、よだれを垂れ流し、苦しそうに首を掻き毟る彼女は、まるで鉢から摘み上げられた金魚みたいだった。弓子はそれをせせら笑った。


「おもしろいわね。助けてって、こんな状況で私以外誰に助けてもらうの」


「考え直して! お願い! いい子にするから」


「今やめてどうするの。私とあなたが元の関係に戻れると思ってるの? もう私は保母さんじゃないのよ」


「そ、なぁ、あたしは戻れます!」


「そう。私は無理」


 施設の友達はみんな死んでしまったが、灰戸は肉体に耐性があったようで、なんとか生存した。生き残った彼女は組織の手駒としていいように使われるようになり、麻薬組織の言いなりになって様々な罪を犯した。何度も何度も逃げ出そうとしたけれどその度ひどく折檻され、学習性無力感で逆らう気力などもうなくなった。


 高校生になり、上層部から薬物を捌くように命じられた。学校内も例外ではない。その口封じのために、好きでもない女教師をわざわざ籠絡して関係を持つことすらしたのだ。赤坂はまだ新任で学級運営に悩んでいる様子だったし、性的な意味で『子供が好きだった』から易々と取り入ることができた。




 ――鏡よ鏡、世界で一番醜いのは誰。


 灰戸梓は、シャワーを終えて曇った鏡をぬぐった。張り付いた水滴の向こう、薄暗い鏡から形のいい瞳がのぞき返してくる。髪の毛から湯の粒が肩に滑り落ちてやわらかい乳房をなぞり、臍、腰から太腿を辿って排水溝まで落ちていく。


 薄暗い鏡には色素の褪色した真っ白な裸体が映っている。また痩せてしまった。元から肉の付きづらい体だったが、ここ最近さらに体重が落ちた。肉体は嫋やかな曲線を描きつつも掴んだら折れてしまいそうなほどに華奢でほっそりしていた。腕も脚も細すぎてお腹には薄く肋骨が浮いており、傷だらけで無数のアザが浮かんでいるせいでいっそ不健康な印象さえある。


 彼女は鏡を眺めているうち、弓子のムスクの湿っぽい香りを思い出し、やがてその場で嘔吐した。透明な胃液がバスルームの床に広がる。ただでさえ薬物常用者の匂いを隠すために濃い香水をつけているのに、こんな饐えた匂いを残したら弓子にめちゃくちゃに殴られてしまうだろう。ケホケホとえづきながらシャワーを出力全開にしてお湯で床を洗った。それから洗剤をたっぷり使って必死で掃除をした。


 脱衣所から出る。バスタオルで水気を取ってショーツを履き、胸をブラに押し込めて、薄手の寝間着に足を通した。濡れた髪もそのままに部屋へと向かう。


「はーっ、はーっ」


 息もできないほどに追い詰められている。過呼吸になりそうだ。喘鳴を吐き出す喉を無理やり抑えて麻薬を流し込む。この薬が死に至る病の特効薬であればよい。あるいは一杯煽ると安らかに死ねる毒薬であれば。実際はそのどちらでもなく、耐性を持つ灰戸にとってはせいぜい痛覚を鈍麻させ興奮をもたらすカフェイン剤だ。


 弓子は冷たい目で灰戸を流し見た。


「仕事前に麻薬はやめなさい」


「景気づけですよ。どうせ効きはしない」


「あらそう。まあいいわ。冷蔵庫に惣菜を入れてあるから適当に食べておきなさい」


「はい」


 崩れそうな精神を何とか保つべく薬漬けになっているせいで、長らくまともな食事を食べていない。お陰でずいぶん痩せ細ってしまった。けれど弓子には、そんなことどうでもいいのだろう。今だってろくにこちらを見ずにPC画面と向き合っている。


 二人の会話はいつもこうだ。弓子が会話を牽引し、居丈高的な決断をくだし、梓は借りてきた猫みたいになって予定でも食べるものでもすべて彼女に合わせる。いや、猫みたいにかわいらしいものじゃない。狡猾な狸だ。灰戸の心のほの暗い部分が、自分に向かって囁いてくる。


 自責しながら、灰戸はくらくらと立ち上がった。


 ――どうすればいい、どうすればいい。ちょっとしたミスが大変な事態を引き起こしてしまった。全てが予想外かつ自分に都合が悪い。


 問題は山ほどある。まず椎名からは情報を聞き出さなくちゃ。二人はどこまで知っているのか? そしてもし全てを知っていた場合どう誤魔化すか。もしダメそうなら適当に処分するしかないか? 仮に椎名を殺したとして遺体はどうする。隠し通せるはずもない。事件の露見が防げないならせめて今すぐ弓子に知らせた方がダメージは少ないのではないか……いや、だめだ。殺すべきなのだろうけれど、もう少し様子を見たほうがいい。


 いま、自分はきららを盗聴している。その情報によれば、明日の夕方にきららは一人でこちらに赴いてくるという。そっちがその気なら、自分だって容赦はしない。ここできららと椎名を殺さなければ自分が死ぬ。何としてでも決着をつけないと。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る