8章:素襖姫来

パンドラ

 六月一日はうりわりとも読むらしい。五月も終わりが近づき、言葉通りの六月を前にして、街はじめじめしていた。檜山市は曇りがちで湿気が強いのだ。


 始業のチャイムが鳴っても担任は入ってこなかったが、教室の面々はこれ幸いとくだらない雑談に花を咲かせていた。


 素襖きららといえば、いつもの席に座って頬杖をついている。つまらない。というのも、今日は椎名の姿が見えないのだ。


 それはクラスメイト連中の話題にものぼっているようだった。


「てか八房どうした? 遅刻?」


「サボりじゃね、物理の追試嫌がってたし」


 紺野が気のない返事を返す。


 きららはこの男にいやに警戒されていた。今まで仲良く連んでいた安西が原因不明のけがで入院し、椎名はきららにつきっきり。周囲の根拠もない噂をろくに検証しようともしないで振り回されて、友達との仲に罅が入っている。周囲の変化について不安を覚えていることが見て取れた。


 彼はどうやらあのデマを信じて、椎名に疑念を持っているようだ。その方が椎名を独占しやすいので、きららには都合が良いともいえる。まあ、どうでもいいけれど。


「昨日は学校来てたけどね」


 友人達によると、昨日も変わらず元気そうだったというので、おおかた突然熱でも出したのだろうということでまとまった。誰もが不自然なまでに安西の件に触れていない。安西の件で疑われていたとはいえ、椎名は基本的には善良な人間であったのだろう。


「噂を検証しようともしないで勝手にショックを受けて、誰かを詰るなんてみっともないよ」


 わざと聞こえよがしに言うと、紺野がこちらを睨みつけてくるのがわかった。そんな視線を向けて来るのはやめてほしい。真面目に怒ってる人間を見ると、なんだか面白くなってきて笑ってしまうのだ。


 しばらくすると遅れて担任が入ってきたので、クラスメイトは慌てて席に着く。もしや叱られるかと思ったものの、赤坂はなにやら難しい顔をして黙りこくったままだ。


「おはようございます。そろそろ梅雨ですね」


 蒸した教室の中で、赤坂はそう切り出した。今日の予定、提出物のリマインドなどの後に、震える声で告げる。


「……皆さんにお知らせがあります。すでに一斉送信メールで知っている人もいるかもしれませんが、椎名八房くんが昨日深夜からお家に帰っていないみたいです。何か知っている人は、……」


 その言葉に、教室が一気に凍り付いた。


 きららが興味深そうにしていると、前からプリントが回されてきた。何か困ったことがあればすぐ担任かスクールカウンセラーに相談するようにと書いてある。


 こんなもの何の意味があるんだろう。まともな教師が渡してくるならともかく、赤坂は灰戸にたぶらかされてラブホテルにしけこむような教師失格の女だ。椎名や紺野達が置かれている状況について、何も知らない癖に。


 続いて、一時限目は自習を言い渡された。他のクラスは体育館での全校集会に呼び出されたらしい。きららがこっそり灰戸の顔色を窺うと、勘のするどい彼女らしく、整った顔立ちを少しこわばらせているのが見えた。


 きららは灰戸に対してずっと不信感を覚えていた。


 彼女に対する違和感が明確な不信感へと変化したのは茶室だった。きららは、自分は食べ物や飲み物に対して関心の強い方だと自覚している。食に拘りの強い環境で生まれ育った影響もあるが、ものの食べ方には内面が現れるからだ。それで茶を立てる灰戸の手をじっと見つめて気づいた。白い肌の上に細かい傷がいくつも刻まれている。


 それは歯が刺さった跡だった。これは誰かに殴られた手じゃない、殴った側の手だ。灰戸の本性は面倒見のいい清楚な女子高校生などではなく、もっと小汚い、うらぶれた世界で生きている。


 それから灰戸は、ホームルームが終わってわざわざ声をかけてきた。学級委員長である彼女がクラスメイトに声をかけていることに対して、傍目から見れば違和感はない。


「おはよう、きららちゃん」


 きららは僅かに目を細める。


 最近興奮しきりでろくに寝ていないので、きららの瞳の白目部分は充血しきっている。元々の目力の強さもあって、物をまっすぐ見つめるだけでうっすらおぞましさが漂う。


「水だ」


 きららが声を潜めてつぶやくと、人形のように整った顔が困惑に歪む。しかしヘーゼルカラーの瞳が暗く淀んだのを、きららは見落とさなかった。


「なんで安西を殴った? 答えは簡単。お前にとってこの高校は、ヤク売り捌いて馬鹿をカモる場所だった。逆に言えば自分の狩場である高校にいる以上、自分がカモられるという発想は低くなる。帳簿、取引現場、とにかく何でもいい、安西はそれを見てしまったからお前に負傷させられた。お前はその罪を椎名に擦り付けようとして噂を流した」


 きららはわざと口端をゆがめてみせた。


「でも意外だったのはぼくの転校だ。ぼくが椎名を唆して、隠したはずの小箱を見つけてしまった。お前は体育倉庫に置いた小箱を取り返す機会を伺って、椎名に接触した」


 ここで自分が情報を持っていることをちらつかせれば、灰戸は椎名をだしにこちらを脅そうとしてくるだろう。相手がどういう反応を返してくるのか見たかった。できたら相手が怒ってくれたら、感情的になってくれたら、こちらとしては非常にやりやすいのだけど。


 灰戸は細くつぶやいた。


「なるほどね。――じゃあ仲良しごっこも馬鹿馬鹿しいからやめにしようか」


 口調は堅苦しく、声のトーンが低い。不信感と嫌悪がしみでていた。


「きららちゃん。私とあなたにはたった一つ共通点があるのよ。それは他人から見れば『異常者』ってこと。私たちひとりでに狂っておかしく生きてきた。でもみんなが持っている常識なんて後天的に与えられたものにすぎないわよね。人間を暴力で支配する。それがこちら側の常識なら、従ってしまえばいい」


「しょーもな」


 きららは失笑する。


「お前が壊す対象にしてる『他人』なんか、所詮自分以外が作ったおもちゃだよ。お誂え向きの既製品のおもちゃを壊すより、自分で面白い物を見つけるほうが楽しいに決まってる」


 灰戸は挑発には乗らなかった。変わらず華美な笑みを湛えている。


「彼の携帯も壊したし、あなたがこっそり彼に付けていたGPSも外しておいたから。きららちゃんはまだ知らないのよ。恐れるべきは敵ではなく、無能な味方だってこと」


 録音を警戒しているのか、濁した話し方をしている。きららは失笑する。椎名のことなら味方というより依頼人だ。


「べつに味方じゃないよあれは。で、お前の目的は?」


「椎名くんの命が惜しければ、今すぐ余計なことをやめて。そして箱を返して」


「箱って、体育倉庫にあったやつ? 中身、鍵だよね?」


 灰戸はきららを見下ろした。目が笑っていないまま、くちびるだけが円弧に歪む。


「知ってるのよ。あなたたちが持ってるはずだわ。私の大切なパンドラの箱」


 それを見てきららもまたほくそ笑んだ。


 ――今まで平和すぎて正直つまんなかったよ。ぼくは仲良しごっこより争い事のほうが好きなんだ。

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