硝煙
ほうほうのていで素襖家から逃げ帰ったその夜、玄関で仕事帰りの父親と鉢合わせた。彼はネクタイを緩めながら目をむく。
「八房お前、こんな夜に出かけるのか?」
「コンビニ行く。すぐ戻る」
「危ないんじゃないのか。俺が送るぞ」
「平気平気。すぐ帰るから! ダッシュで行くし!」
「……携帯持って行けよ」
制止を無視してすれ違って出ていく。もちろんコンビニは外に出るための口実だった。何しろ脛に傷のある女のいうことだから半信半疑ではあるが、きららの言ったことを確かめたかった。彼女の妄想だと言い切りたかった。
夜には悪魔が棲んでいる。初夏の夜はどこか蒸し暑かった。空はどどめ色に染まって、椎名を突き放しているようだった。
正門に手をかけて体を持ち上げ、難なく乗り越える。暗い病院をスマホのバックライトで照らし、迷いなく進んでいく。きっときららの思い込みだ。通用口には誰もいないはずだ。
しかし違った。通用口の前には人影がいた。常夜灯に照らし出され白く浮かび上がる、ほっそりした体躯――それは紛れもなく灰戸梓だった。
「……灰戸」
声がうまく出てこない。その声に気づいたのか、彼女が振り返る。
「どうしたんだ? びっくりした顔して」
「こ、これは……」
「きららに言われたんだ。お前がここにいるはずだって。お前が、安西を殺そうとしたって……本当なのか? 嘘だよな。ここに居たのだって、入院してたからで……」
椎名は、しどろもどろの灰戸を一瞥し、何事も無かったように微笑んだ。しかし、
「……もうバレちゃってたのね。そうよね」
灰戸は青ざめた顔で返した。
「……安西くんを殺そうとしたのは、私。椎名くんの前で轢かれたのは自作自演」
「嘘だろ? なあ冗談止めろよ」
「……私には昔お姉ちゃんがいたの。でも過去、安西君に強姦されて、それを苦に自殺してしまったのよ」
彼女の顔は強張っていた。
「そのうえ安西君は、暴行のようすをおさめたビデオを持っていて、私はそれをネタに脅された。悩んだ後、もみ合いになって殴ってしまったの。あの小箱の中身は、お姉ちゃんの映像を収録したUSB。だから絶対に、誰にも知られないように取り返したかった。取り返して処分しないといけなかったの……」
灰戸の声音は段々とか細くなっていく。
椎名は、昼間に刑事から聞いた話を思い返していた。人は誰しも犯罪者になりうるという言葉が、あの時とは違った質量で重く胸に突き刺さった。頬とうなじにぬるい汗が伝う。それは梅雨の湿気のせいじゃない。
「すべて終われば私も罰を受けるから……お願い。誰にも言わないで……」
大切な人を助けられなかった後悔は、椎名もよく知っている。姉が自殺したならなおさらだ。
「俺は全然部外者だから、こんなこと言われても腹立つかもしれないけど。お姉さんのこと、つらかったよな。でも、灰戸が犯罪者になる必要なんかないんだよ。こんなこと、もうやめていいんだ。やめなくちゃ」
蒸し暑い風が下草をそよそよ揺らしていた。そして椎名は、先ほどの灰戸の話の矛盾点をこわごわと切り出した。
「……きららとあの箱、開けちゃったんだよ。中身、USBメモリじゃなくて屋上まで続く鍵だった。悪いけど、灰戸の言ってるお姉ちゃんの話、すぐには全てを信じられない」
灰戸の靴の爪先が砂利を踏みしめる。それから彼女は顔を上げる。彼女の顔には先程とは打って変わって、清々しい笑みが浮かんでいた。
「ありがとう。こんな人間のために、そんなに悩んでくれただけでうれしいわ」
そして彼女は、流れるような自然な動作でスカートの中に手を突っ込んだ。すらっとした白い太腿に無骨なホルスターが巻き付けられているのが見えた。それから彼女は銃を引き抜き、椎名めがけて迷いなく打ち抜いた。
硝煙。
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