隠し事
大通りに戻るとあちこちにカラオケ店が構えていた。その中から、一番部屋数の多そうなチェーン店を選んで中に入る。
案内された部屋に入って扉を閉めると、たばこ臭い匂いが際立って感じた。灰戸は部屋に入るやいなや、入り口近くのスイッチで明かりを限界まで暗くした。それから部屋のモニタ側に置かれていた通信機器を手に取り、何曲かまとめて歌を入れる。
「灰戸?」
ずいぶん歌いたいんだな、なんて暢気なことを思っていられるのはたった数秒の間だった。彼女はマイクには目もくれず、ブラウスのボタンに手をかけてすぐ服を脱ぎ始めた。
「え……俺、そ、そんなつもりじゃ」
度肝を抜いて後ずさる椎名の前に、ひどく醜い肉体が現れた。掴んだら折れてしまいそうなほど細い腰。くっきり浮き出た鎖骨、控えめな乳房から痩せた腹にかけてまで、いくつもの青痣と切り傷がはっきりと残っていた。痛々しすぎて直視するだけでも苦しくなる。
「……なんだよ……それ」
――彼女がこんなひどい目に遭っているなんて全然知らなかった。誰にやられたんだろう。ご両親や赤坂先生はこれを知っているのか?
「隠しててごめんなさい」
灰戸はうつむきがちに切り出す。声が震えていた。
「変でしょ? 気持ち悪いって思ったでしょ?」
「その傷……どうしたんだよ」
「……ママにやられたの」
自嘲するような響きだった。虐待ということだろうか?
「もう耐えられない。私を殺して。今日椎名くんを誘ったのはこれが理由なの」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。安西をぶったのは俺じゃない、俺は猟奇殺人鬼なんかじゃないよ」
「じゃあ」
「それに」
言葉を遮る。慌てて上着を脱いで、下着姿の灰戸に被せてやった。
「もし俺が猟奇殺人鬼だったとしても、罰するべきは灰戸にそんなひどいことをした奴の方じゃないのか? 傷ついてる側のほうを殺さなきゃいけないなんて、そんなのおかしいだろ!」
灰戸ははっとしたように目を見開いていた。
本当はなんと声をかけたら良いのか分からなかった。椎名は両親に愛されてきたし、友達付き合いにも苦労していないし、あくまで『普通』の範囲内で幸福な子供だと自覚している。だから椎名自身がどれだけ力になりたいとか元気づけてあげたいと本気で思っていても、こんな悲痛な現実の前には全て薄っぺらいきれいごとにしかならないような気がする。彼女の苦しみを何も知らないまま、好きだとか触れたいとか考えていた自分が情けなくなった。
「……誰にも言わないで……」
愛してる、一緒にいて、これは運命。カラオケ機器から軽快なラブソングが大音量で流れ、灰戸のすすり泣きをかき消す。椎名はか細い背中をずっとずっとさすり続けていた。
数時間ほど経つと灰戸も落ち着きを取り戻してきたようだった。同時に壁掛けの内線が鳴り、満室なのでと退室を促された。
「……変な話しちゃってごめんね。そろそろ帰ろうか」
灰戸はブラウスを着込む。
「今日見たこと、誰にも言わないでね」
念を押して彼女は部屋を出て行った。僅かに唇を噛み締めながら彼女の背中を見送る。
灰戸の傷は酷いものだった。放置していたらそれこそ死んでしまうかもしれない。彼女を守りたい。でも、椎名が誰かに通報したとして本当に助けられるのか? 児童相談所や警察や福祉はどれだけ彼女の力になってくれるのだろう。
自分にとって人を愛することはたやすい。一方的に好意をぶつけているだけ、遠くから「どうかあの人が幸せになりますように」と願うだけでも「愛する」の範疇に入るからだ。けれど、自分の好意をそのままの形で相手に受け取ってもらいたいとか、見返りが欲しいとか欲を出すと途端にむずかしくなると思う。誰かを救いたいなんて尚更だ。
檜山市は絵に描いたような田舎なので、国道沿いから少し離れると途端にRC造りの一軒家と田畑が続く住宅地が現れる。椎名と灰戸は田畑沿いの細い路地を喋りながら歩いていて、向こうから近づいて来る一台の自動車を身留めて道路脇に寄った。
だが、様子がおかしい。その車は明らかにスピードを出しすぎている。ナンバープレートが見えないように細工されている。
さらにその自動車は、明らかにこちらに向かってきていた。
灰戸が叫んだ。
「っ――危ない!」
視界が回転し、目の前にいたはずの灰戸の姿が消えて、いつの間にか土手の下に転げ落ちていた。灰戸に思いっきり突き飛ばされてしまったようだ。背中を強く打ってしまって動かない。
「なん……」
どういうことだ? 危険はないか、周囲にこいつの仲間はいないか? 何度も息を吐いて、声を出さなくては出さなくてはと思いながら声が出せるタイミングを考える。頭が混乱して思考が追いつかない。その場で硬直してしまって体が全く動かなかった。
「し、椎名くん……」
土手の上から悲鳴が聞こえる。灰戸は道路にうずくまっていた。遠目でうっすら見えるそいつは大ぶりなナイフを持っていた。椎名には状況が分からなかったが、とりあえず灰戸を守ろうと、傷む腕を押さえて立ち上がった。
鉛のように重い足を、動け動けと叱咤して土手まで這い上がる。慌てて椎名が駆け寄ると、道路には灰戸がぐったりとうずくまっていた。問い詰める間もなく、相手はあっという間に車に乗り込んで走り去っていった。追いかけようにも、椎名だって負傷しているし、何より灰戸をここに一人ぼっちで置いておけない。
先ほど打ち付けた背中が焼けるように痛い、けれど、自分なら大丈夫だと自分に言い聞かせる。今は灰戸の怪我が最優先だ。
「灰戸……⁉ 大丈夫か⁉」
「……知らない人が……」
あわててポケットから携帯を取り出した。あまりに切羽詰まっているので取り落としそうになる。
「きゅ、救急車! 病院に連絡しなきゃ」
「……家の人に、連絡して……」
灰戸は、家族に連絡してほしいとだけ言いつのってそのまま失神してしまった。
「お邪魔します」
挨拶しながら病室に入った。窓際にフルーツの入ったかごが置かれている。
カーテンの奥からいそいそとひとりの女性が出てきだ。歳の頃からして灰戸の親だろうか。椎名の母親と比べるとずっと若々しく、エキゾチックな顔立ちの美人だ。すらっとしていて、まるでパリコレモデルのように身長が高い。
彼女は椎名の姿を見て少し驚いてから、微笑みで迎え入れた。
「こんにちは。……あの子の同級生ですか?」
「はじめまして。同じクラスの椎名です」
緊張で声が裏返りそうだ。頭を下げると、彼女が穏やかな口調で訊ねてくれた。
「ああ、あなたが椎名くん、いつもお話は聞いています。あの子を助けてくれたんでしょう? 私は弓子です。来てくださってありがとうございます」
この人が灰戸の母親。背筋に冷たい汗が伝うのを感じた。
すると、奥のベッドで寝そべっていた灰戸の方から話しかけてきた。
「私、椎名くんに言わなくちゃいけないことがあるのよ」
「えっ、何」
「……ごめんなさい。私のせいで、椎名くんをこんなことに巻き込んでしまった……」
灰戸は青ざめた顔で俯いている。椎名は気さくに笑って返した。
「こんなことって、別に灰戸のせいじゃないだろ。責めたりしねえよ」
病院を出て、鞄から携帯を取り出して時間を確認する。
いつもよりメッセージアプリの通知が少なかった。普段賑やかなクラスや部活のグループが全く動いていないことも、微妙に居心地が悪い。
受信メッセージ一覧の上から一つ一つ既読をつけていく。画面をスクロールし終わって待ち受け画面に戻ると、ふと違和感に気づいた。
椎名は友人とのやりとりはもっぱらメッセージアプリやSNSを使用している。普段ほとんど目を通すことのないSMSのダイレクトメッセージ欄に、アイコン未設定、差出人不明のメッセージが届いている。何の気なしにそれを開封して、背筋が凍りついた。
『よけいな手出しはやめろ。やったこともやらなかったことも自分に返ってくる』
――復讐? 俺のしたことは許されていなかった?
ふと、かつて中学時代の先輩に言われた台詞を思い出した。瞳孔がすぼまり、背筋を嫌な寒気が走った。このメッセージの送信相手は、紛れもなく悪意を向けてきている。
あの車に轢かれかけたものの、椎名のけがも灰戸のそれも命にかかわるようなものではなかった。殺意と言うよりはむしろ……脅しのような。
椎名は、灰戸が自分を部活に誘ってくれたことを思い出した。
『私のせいで、椎名くんをこんなことに巻き込んでしまった……』
違う。逆ではないだろうか。彼女が刺されてしまったのは、誰かに狙われた理由は……椎名に接触したからではないだろうか?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます