6章

わふん!

 緊張を自覚していた。


 今日は灰戸との『初デート』に向かう日だ。いや、正式には『安西のことで話したい』と呼び出されただけで恋人候補としてデートを申し込まれた訳ではないのだが、向こうから二人きりで遊びたいと誘って来たのだからデートと思ってしまってもいいだろう。


 目的地である国道沿いの繁華街との関係から、集合場所は椎名の家になっている。今日は親も仕事で出掛けているので、彼女だなんだのと両親に冷やかされることもない。


 ありがたくも空は快晴。正午になって、椎名家のチャイムが鳴らされた。玄関を開けると、そこには灰戸が立っていた。


「椎名くん、お疲れ様」


 フリルを贅沢に使った前開きの長袖ブラウスに、ふくらはぎまで隠れる長いスカートを纏っている。ツインテールはいつもより低い位置で結ばれて大人っぽかった。


いつもの制服姿も好きだけれど、私服はいつもに増して可愛い。気が付いたら言葉が口をついて飛び出していた。


「か……かわいい」


「え……」


 灰戸は照れたように目を逸らして、唇をもじもじさせた。


 だが、甘酸っぱい雰囲気が流れたのは数秒ほどだった。玄関に繋がれていた飼い犬・シノが激しくばうばう吠え始めたのだ。リードの限界の距離までこちらに寄ってきているせいで、前のめりの態勢になっている。


 どうやら、見慣れぬ灰戸を敵だと思っているようだ。椎名は、尻尾をぴんと立てて飛びかかるシノから灰戸をかばい、必死で呼びかけた。


「お前の飼い主の友達だよ。悪い人じゃない」


 落ち着かせようとするが、シノは歯を剥き出しにして吠えている……全く伝わらない。


「おい落ち着けって!」


「わふん!」


 やはり無理だった。完全に警戒されている。


「ごめん、いつもは賢い犬なんだけどさ。人見知りしてるのかな」


「ううん、いいの」


 『シンデレラ』姫は困ったように笑った。結局シノの猛攻はしばらく続き、二人はなんとか隙を見て逃げ出した。


「で、昼飯なに食べようか」


 休日の昼時だけあって繁華街は人通りが多い。目的地までたどり着いて、灰戸のほうを窺う。彼女は近くの店の看板をきょろきょろと見回して、


「うーん……ハンバーガー?」


「ハンバーガー? そんなんでいいの?」


 椎名はきょとんとしてしまった。デートというイメージと、休日の昼前だけあって家族連れでごった返しているチェーン店のイメージがうまく頭の中で整合しない。


「いつも食べているから。椎名くんは嫌だったかしら……?」


「ううん! 俺も新しいフェアメニュー気になってたから、ちょうどいい!」


 そう言うと、灰戸は安心したように表情を綻ばせた。


 椎名にとってもありがたい提案だったのは事実だ。女子が好きそうな、ちょっとお洒落な店じゃ男子高校生の胃袋が満足しないだろうと思っていたのだ。見栄張って奢るつもりで、お年玉を引きだしてきたのだが、チェーン店ならお財布にも優しい。


 長い列に並んでやっと椎名たちの順番がやって来た。だがここで予想外のことが起きた。椎名がメニューを注文し終わると、灰戸はそのまま頭が真っ白になったかのようにその場で数分立ち止まってしまったのだ。昼時のハンバーガー屋の行列はそこで止まってしまった。レジ担当のスマイルがだんだんと引き攣っていくのがわかる。灰戸の視線は落ち着きなくメニュー表の上を彷徨っていた。それを見かねて、


「灰戸、大丈夫か? 注文決まらねぇの?」


「椎名くんと」


 何か言いかけてから、彼女は顔を上げた。何だか顔色が青ざめて見えるのは気のせいだろうか? 彼女は躊躇いながら言葉を切り出す。


「椎名くんが決めて」


「俺が? じゃあ、俺と同じのにしよう、ほら期間限定らしいし」


 無難な選択だろう。灰戸もそれを受け入れた。


 数分と経たないうちにハンバーガーのセットが出来上がった。シェイクの入ったカップを倒さないように気を付けながら階段を上がって、飲食スペースに向かい合って座る。確かこういうときは女子をソファ側に座らせるのがモテる男だって、安西が言ってた気がする。


 席に着くなり灰戸は浮かない顔で、


「ごめんね」


「なんで謝るの」


 ハンバーガーの包みを剥がしながら思わずきょとんとしてしまった。彼女はうつむいたままだ。


「自分からこのお店に来たいって言ったのに、結局選ばせちゃって」


「そんなこと気にしてねえよ。ここメニュー多いから、俺もよく迷うし」


 フォローしつつ、ハンバーガーにかぶりつく。塩っけのある肉汁がじゅわっと口内に流れ込んできた。


「そうじゃないの。わたし、食べたいものとか、やりたいこととか、……よくわからないの」


呆気に取られる椎名を前に、彼女はぽつんとつぶやいた。ポテトをつまむ手が止まる。ぎこちなくなってしまった空気を拭うかのように、彼女は、


「ねえ……この後、行くところが決まってなかったらカラオケに行きたいな。二人になれると思って」


 食べ終わったハンバーガーの包み紙をぐしゃぐしゃに丸めながら、灰戸はつぶやいた。手にべったりと張り付いたケチャップをナプキンで拭っている。そういえば彼女と食事をしたのは初めてだけど、随分子供みたいなやんちゃな食べ方をするのだと椎名は思った。

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