敗北

 彼女は舌を絡ませながら、白魚のような手を椎名の手の上に持ってきて、指先を絡ませてきた。指の腹でやさしく撫でてくる。


「ぼくと椎名がキスしたって知ったら……、委員長はどんな顔をするかな?」


 甘い吐息を漏らしながら、 悪魔は妖艶に笑った。


「ほら、好きな娘に見てもらってもっと興奮しなよ」


 嘲笑されて、自分の舌を嚙み切ってしまいたくなった。


 きららにひどいことをされると悔しくてみじめで情けなくて、その場で口をふさいで黙らせてやりたくなる。けど同時に体の芯から獣欲の炎が激しく湧き上がって下腹部に快感がよぎるのだ。


本来体力差であれば一捻りできるはずの大柄な男である自分が、肉付きのいい『女の子』なんかに尊厳を剥ぎ取られている。もっと欲しい。きららにすげなくされたい。


 きららは唇を離したかと思うと立ち上がり、椎名のまたぐらを足の裏で踏みつけた。靴の土踏まずの部分がスラックスに食い込み、ぐりぐり刺激してくる。痛いはずなのに、それが不思議と心地いい。きららが美しければ美しいほどに、彼女の生命の鮮やかさとその終わりを意識させられるのは何故だろう。一瞬の稲妻のように煌めいて消える、いずれは滅びる肉体の持ち主だという事が、はっきりとわかってしまう。


 雄は愚かだ。その性欲ゆえに、美しい雌を前にすると自然と跪き、なんでも言うことをきいてしまう。古くはアダムとリリス、ハンバートとドロレス、譲治とナオミまで。今の椎名もまるで俎の上の鯉のように、きららの思うがままされるがままになっていた。口ではどんなに嫌がっていても、男の体では興奮を隠すことができない。


 敗北してしまいたかった。今すぐ負けを認めて、この女のもとに下りたい。


「あはは、興奮してる。マゾだねー。気持ちいいの?」


 きららはそう囁いて、さらに強く踏みつけた。好きでもない女友達の足に踏まれて喜んでしまっているなんて変態野郎だ。それを自覚させられて、胸がぎゅっとうずいた。


「椎名はさぁ、女の子にこんなことされて嬉しがってるけど、ぼくのこと好きなの? それとも、こういうことしてもらえるなら誰でも良いわけ?」


 きららは冷めた目で椎名を見下ろしていた。半泣きになりながら即答する。


「きららがいい。きららにこんなことしてもらうためなら何でもする」


「敬語使おうよ」


「ごめんなさい、申し訳ございません、きららさんにしてもらいたいです、きららさんじゃなきゃダメです」


 快楽に震える声で懇願した。


「人生楽しそうで何より」


 きららは、またぐらを一際強く踏むと満足げに微笑んでくれた。椎名はもうその笑顔を見るだけで幸せになってしまう。今すぐ自分のリビドーを解放したくて仕方がなかった。


「椎名ってさぁ、本当にぼくのことが好きだよね……」


「ううう……」


 きららは扉に向かって叫ぶ。


「委員長、ごめんね! 椎名、『遊び』に夢中みたいでさ」


「遊びって、何? 何してるの?」


「ごめんなさい……! すぐ、開けるから……」


 ――なぜ、何のために、どうして謝っているんだろう? 俺はこんなこと、望んじゃいない……。


 うなじに汗が滑り落ちた。昂る心臓を何とかいなす。


「や、め……っ」


 腕に力を込めて何とか彼女を押しのけた。


 するときららは椎名を見下ろしたまま、口端を軽く袖で拭った。机の上から鞄をひったくり、踵を返す。長い黒髪がはらりと翻った。


「じゃあね、椎名。続きはまた今度しよっか」


「続きなんか……」


 彼女はひらひらと手を振って、教室の前扉から出ていった。


 まだ荒い息と、乱れた制服を整える。それから後ろ扉の鍵を開けると、頭ひとつ分低い位置に委員長の姿があった。さっきの男子生徒と同じように、やや緊張した面持ちだった。


「あ、やっと出てきた。二人で一体何して遊んでたの?」


「……げ、ゲーム」


「もう! ゲーム機なんて持ってきちゃだめよっ」


 歯切れ悪く答えると、天真爛漫な微笑を返された。胸が締め付けられる。


「でも、今回だけは秘密にしてあげるわ」


「そ、それで俺に何の用?」


「あのね……今度の休日、私と一緒に出かけない?」


 上目遣いで見上げられた。ヘーゼルカラーの瞳が夕焼けの光できらきら輝いている。それから彼女はふっとまじめな顔になって、


「安西くんのことで話したいことがあるの。きららちゃんには秘密にしてね」


 自分は灰戸のことが好きだ。それは間違いがない。彼女と一緒にいると心が安らいで、まるで秋の夕日に照らされているみたいに穏やかな気持ちになれる。けれど自分の肉体と精神はあの悪辣なきららに支配されていて、椎名はその棘だらけの檻から逃げ出すことができないままでいるのだ。だからこのまま灰戸と距離を縮めていくことこそが、彼女への裏切りのような気がして、心がちくりと痛んだ。

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