5章

夢をみる

 夢をみる。


 西日の照らす通学路、自転車を押しながらだべっている風景だ。狭い歩道には桜の花びらが散らばっている。薄紅色の花びらは行き交う人々に踏み潰されて、茶がかった色になっていた。


 夢の中の椎名は今より一回り身長が低く、まだサイズのあわない学ランを着ていた。小学校の頃は皆と同じくらいの背丈だったのに、最近ぐんぐん身長が伸びてきて、最近の悩みの種は成長痛だ。


「剣道スか? バスケじゃなくて?」


「そ! マジで楽しいから。八房ならぜってぇ強くなるから来てほしいんだよ!」


 隣を歩くのは一つ上の先輩だった。小学校の放課後バスケクラブで知り合った、面倒見がよくて優しい先輩。中学進学と同時に剣道部に入り、今はのぼせ上がっているらしい。人生が変わるきっかけなんて単純で、椎名は彼の熱烈な勧誘で剣道部に入ることになった。


 進学先の中学校は剣道の強豪校で、上下関係も厳しく選手層が厚かった。大会で良い結果を残せばスポーツ推薦や内申点アップが期待できるため、そういう目的でのめり込んでいる生徒もいた。椎名も中学生から剣道を始めた初心者の割には勘のいい方だったものの、いわゆる『一軍』メンバーに選ばれることもなかった。


 だが同学年でひとりだけ、格の違う少年がいた。名前は広瀬。色の白い顔で、鋭い三白眼に短い眉というあっさりした顔立ちで、細身だったがそのぶん俊敏だった。


 彼は雪深い田舎の道場の息子で、幼い頃から爺ちゃんに剣道を叩き込まれ、その腕を見込まれてひとり檜山市まで出てきたらしい。彼は天性の才能と努力できる根性を同時に持っていた。入部してすぐに個人戦で西日本大会を制した。ひとたび竹刀を握れば誰にも止められない。


 だがその反面、部内での広瀬は半ば避けられてもいた。


 上級生や経験者をおして一年から大将を担っていたことをねたまれていたし、何より彼自身の反骨心の強い性格から部内対立が絶えなかった。ストイックな天才だったからこそ、そうでない生徒達が単に怠けているように見えていたのだろう。手を止めて数分雑談しているだけで皮肉をぶつけてくる。


「雑魚の癖に遊ぶな」


 正論にも言い方というものがある。だが部内で一番強いだけにその態度にも文句をつけづらく、常にぴりぴりしている彼の影響で部内には緊張感が漂い始めていた。


 一年も経つと、椎名を誘った先輩は部長になって、帰り道の雑談に愚痴が混じる頻度が上がった。


「広瀬は扱いづらいよなぁ。自分がガチ勢なのはいいとして厳格すぎんだわ。エンジョイ勢なんてほっときゃいいのに」


 広瀬の厳格な性格は事実だ。だがその性格がなければ西日本チャンプなんてなれなかっただろう。


 椎名は先輩に混じって彼を腐す気にはならなかった。むしろ尊敬してすらいる。自分はあそこまで打ち込んではいない。


 去年の夏合宿。ひどく蒸し暑い日で、顧問がひっきりなしに水分補給を呼びかけていた。その日、たまたま広瀬と同室になって合宿の間中一緒だったのだが、質問があればすぐに答えてくれるし仲間への指導も誰より丁寧で的確だった。随分怖いと思っていた同級生はただ、中学生の部活にしては真面目『すぎる』だけだった。まるで切れすぎるナイフみたいな存在だ。


「そーすかね?」


 視線を落とし、自転車の三段変速スイッチをかちかち回しながら返した。いちに、さん、に、いちに、さん。心ここに在らずな仕草で椎名が納得していないことに気づいたのか、先輩は零す。


「八房も気をつけろよ。お前は他人に甘いってか、人を見る目がないし」


 椎名は口を尖らせた。誰だって長所短所を持っているのは当然だし、そのどちらかでしか人を評価しないほうが、よっぽど見る目がないと思うのだけど。


「ボーっとしてると変なのに捕まるぞ。人間っていうのは自分を助けてくれなかったやつを憎む。本当に苦しい奴が求めるのは救いなんかじゃなくて、同じ地獄に堕ちてくれることなんだ」


「他はどーか知りませんけど、広瀬はそんな奴じゃないっすよ。誰かに助けられたいとか思ってるタイプじゃないっしょ、あいつ」


 しかし中学二年の夏休みの最中、事件は起きた。副部長とその取り巻きが、教師がいない隙に広瀬を呼び出して怪我させ、彼はその後部活どころか学校にすら来なくなってしまった。空っぽになった広瀬の席に牛乳をぶちまけたり花瓶を飾ったりしていたずらをする生徒も現れて、椎名はその度にこっそり掃除をしていたのだった。


 二年生の秋に先輩達が引退すると、部内では椎名を部長に推す声が上がった。実際身体能力には恵まれていたから、試合では大将をつとめるようになり、その後の大会では優秀な成績を残した。けれど、本来その栄光や称賛を受けるべきだったのは椎名ではなく広瀬だったはずだ。


 今でもたまに、夢をみる。例え助けなんかいらないって思われても、鬱陶しいって思われていても、強引にでも止めるべきだった。そうすれば何かが変わったかもしれないのに。


 大将や部長なんてどうでもよかったから、広瀬と仲間として一緒に戦いたかった。それだけが、中学時代の心残りだ。



 はっと目を覚ました。嫌な寝汗をかいている。


 ベッドの下で眠る愛犬を起こさないように気を付けながら、チェストからジャージをひったくって、階下に降りていく。


 朝ランのためにリビングでジャージに着替えていたら、母親が起きてきた。


「部活停止だからって走り込み? 剣道もいいけど、勉強が心配だわ~」


「勉強なら昨日した! マジで!」


 つばきはまるい顔を不満げにゆがめて歯磨きを始めたが、それ以上苦言を呈する様子はない。代わりになぜか浮かない顔をしていた。


「そういえば昨日エビフライ残したでしょう?」


「あーうん。それがなんか?」


「お弁当に詰めておくからね~。ねえ大丈夫? 最近ちょっと変よ」


 彼女は口をゆすいで、歯ブラシを洗面台に戻す。


「お父さんも言ってたわよ。こんなに落ち込むのって、中学生の時に広瀬君の事で揉めて以来でしょう。やっぱり安西君の事件に巻き込まれたから……」


「ちげーって! 二週間連続で部活出てないからでーす」


「また適当なこと言って~」


 つばきはため息をつく。それを無視して、ジャージに着替えるために寝巻きを脱いだ。


 八房のおなかには、まるで牡丹の花のように鮮やかな手術痕がはっきり浮かび上がっている。小さい頃、友達と川遊びをした時に沢に落ちてケガをして、大きな手術をした跡だ。つばきは心配のあまりろくに眠れなくなり、それ以来腕白息子について何かと気を揉むようになったのだ。


 手のかかる子供だった自覚は八房本人にもある。自分の手相を書き換えようとして彫刻刀で手を深く切り裂いてしまったり、飼い犬の散歩をしていたら走るのが楽しいあまりいつの間にか隣の市まで迷い込んでいたり――枚挙に暇がない。


 ジャージに腕を通しながら、


「俺もう高二だよ。何でもかんでもかーちゃんが口出ししてたら恥ずかしいって」


「高校生にしては子供っぽいんだもの」


「そんなに心配なら、迷子札つけてケージに入れてリードで繋いどいてよ」


 口先の反論だ。きららがうつったかもしれない。


「もう、それじゃワンちゃんじゃない」


 母親の戯言がむず痒くて、背中を向けたまま適当に遮ってしまう。運動靴に足を通して早々に家を出た。

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