裸になりたい

 翌朝、まだ朝もやに包まれた時間帯。椎名はきららと並んで正門前に立っていた。


 わざわざ椎名を泊めてくれたのは、こうして早朝に学校に駆り出すためだったらしい。もちろん昨晩男子高校生チックな青い妄想が叶えられることは全くなく、それどころか寝相までアクロバティックなきららに尻を殴られ腹を蹴られ顔に肘鉄を食らい、若干寝不足だった。


 欠伸をして目を擦っていると、隣のきららが問いかけた。


「夜更かししてたの? ダメだよ、躾がなってないねえ」


誰のせいだと。


「で、今朝の目的は何だよ」


「小箱の中に入っていた鍵を、鍵穴に合わせることだよ」


 きららは掌の中で鍵を弄んでいる。


 『鍵だけを学校に置いたままにしている』ということは、鍵穴が学校のどこかにあるため置いておいた方が利便性に優れるか、持ち主が慌てて置いていったかのどちらかだろう。後者となると現時点では検証しようがないため、きららはまず、前者の可能性を潰すことにした。


「でも、なんでわざわざ朝を選んだんだ?」


「夜は残業してる教師がいるし、警備会社の警備がある。窓に磁気センサー、天井に人感センサー、廊下に赤外線センサー。まだその辺までは手が回らなかったからね、忍び込むなら早朝しかないんだ。理屈に合ってるでしょ?」


 確かに。でも、これじゃまるで椎名が共犯みたいじゃないか。


「椎名だって明るい方がいいもんね。お化けが怖いから」


「怖くねーって」


 二人はさっそくすべての鍵を探した。まずは教室のロッカー、保健室の金庫、美術準備室の石膏像、理科室の標本箱、音楽室のピアノカバー、そして下駄箱まで。それらすべてをくまなく調べた。だがそのどれにも、鍵はうまくはまらなかった。


 ホームルームまで残り五分だ。それまでに教室に帰らなければ二人とも遅刻扱いになってしまう。椎名は自分の腕時計と鍵を見比べながらつぶやいた。


「なあ、もういいんじゃね? その鍵はきっと、犯人だかが持ってる金庫とかの鍵だよ。だから教室帰ろうぜ」


「……いや、この校舎の錠前の機構は大体頭に入ってる。まだ試してない錠前が一つある。ぼくたちお馴染みの昼食スポットだよ。旧校舎の階段の、屋上まで続くドアさ」


 椎名ははっとした。確かに施錠も甘いし、錠前との雰囲気もあう。


 二人は屋上まで続く階段へ赴いた。ホームルーム三分前、きららは堂々と扉の前に立った。黒セーラー服の懐から小さな鍵が出てきた。


「ぼくはここに鍵を刺すだけ。それでこの錠前は開く。まあ見てなよ」


 そう言って錠前に鍵を差し込むと――鍵がぴったりはまりこんだ。素襖が手を右にゆっくり傾けると、カチッという音がして、立派な錠前が外れて鎖と共に床に転がった。


「開いた! ほら、扉を開けてみて」


「俺?」


「椎名以外誰がいるの」


 渋々、屋上へ続くドアノブに手を掛ける。緊張で汗ばんだ手ではうまく掴めなかったが、力を込めると簡単に開いた。


 ドアの隙間からさあっと風が流れ込んできた。すると、視界が一気に青に染まる。目の前に空が広がっていた。屋上は雲一つない快晴で、初夏の蒸し暑さも吹き飛ばす陽気だった。風が前髪を攫う。


 きららはフェンスに寄りかかり、眼下の街並みを見下ろす。その顔はどこか満足そうだ。


「まぁまぁだね」


「飛び降りるつもりか?」


「何言ってんの? こんな高いところから落ちたら死んじゃうじゃん!」


 きららは目を見開いて椎名を見つめている。自分こそ池に飛び降りてたくせに……。何回目かも分からない呆れのため息を漏らした。


「で、まずは……これかな!」


 きららが駆け寄ったのは貯水タンクだった。


 檜山高校では、県の方針により雨水を濾過したものを池などの非飲用水道設備に使っている。厳重な警備がされていそうなものだが、タンクの近辺だけブルーシートや空き缶が散乱している。まるでさっきまでそこに人がいたかのようだ。


「どうしてここに来たか、鼻のきく椎名ならわかるでしょ? ぼくと出会った時にお前も気づいたはずだ」


 椎名は深くうなずく。


「……水。池の水から、薬品臭い奇妙な匂いがした」


 その通り! きららはパチンと指を鳴らした。




 転校初日のことだ。きららは、転校の手続きを終えて水道で手を洗おうとしたとき、水からぴりっとした違和感を覚えた。


 普通の感覚の持ち主であれば、水道の錆びと切って捨てるかもしれない。しかし、料理人の娘として鋭敏な感覚を受け継いだきららには、この感触に覚えがあった。ラオス原産、かつてはエスニック料理の味を引き締めるために使用されていたが、幻覚成分や依存性が検出されて現在一般での流通は規制されているスパイスだ。


 そこで彼女は考えた。水質が知りたい! 思い立ったら一直線のきららは、教職員を撒いて中庭の池に飛び込み、水槽に放り込まれた金魚を食べた。ついでに科学部からpHパックテストとCODパックテストを勝手に拝借して水質検査をおこない、自分の感覚が間違いでないことを確信した。


 自分が探していた麻薬プラントは、間違いなくこの街にある!




「……池に飛び込んだり水槽に手突っ込んだりしてたのにも、理由があったのか……」


 ホームセンターの店員が言っていた、『この品種は水質の変化に弱い』と。水槽の金魚の一部が死んでしまっていたのも、きららが殺したのではなく、僅かにでも麻薬を混ぜられた水に耐えられなかったのだろう。


「そりゃそうだよ。理由なくあんなことしないって」


 きららが目をぱちくりさせた。


「その辺分かってないのに尻尾振って着いてくるんだから、椎名って変な子だね」


「自分が脅迫してきたくせに」


 理由が分かったことで一瞬納得しかけた椎名だが、いややっぱりおかしいと首を傾げた。いくら理由があったからといって、普通、渡り廊下から中庭の池に飛び降りたり、クラスで飼ってる金魚食べたりするか? この女、やっぱりちょっと常識が抜け落ちているんじゃないだろうか。まぁ、それも十人十色の個性のひとつと思えば批判するのも気が引けるし、椎名はむしろそういう自由奔放なところがたまらなく好きではあるのだけど。


 そういえば、きららはまだナイフを隠し持っているのだろうか。確かめる術はない。


 貯水タンクが整然と並んでいる。大人であれば蓋を開けそうな大きさだ。蓋にはなんと鍵がかかっていなかった。正確には既に誰かが開けた跡があった。


 太い腕に力を込めて、蓋を開けると、中には貯水タンクらしからぬ光景が見えた。ビニールシートが敷いてあり、水と粉が半々ぐらいに入っている。つまり、誰かが学校の水に麻薬を混ぜた。非飲用だからこそなかなか気づかれなかったのだろう。


「椎名、お前には感謝しないといけないね。小箱から鍵が見つかった時、ぼくはとっても嬉しかったんだよ。ぼくが本当に求めていた興奮の入り口に、君が導いてくれた!」


 彼女は熱の籠った口調で捲し立てた。


「ぼくの退屈と、お前の濡れ衣、安西の怪我。それを打破してくれる鍵は、同じものなのかもしれないね」


 きららは手を伸ばし、椎名の顎の下をよしよしと撫でた。どこかにナイフを隠し持っているかもしれない、また刺されるかもしれないと思うと逆らう気にもなれず、甘んじて受け入れる。こちらを見上げる顔が不覚にも可愛かった。


 きららの前で裸になりたい。


 彼女に出会って困惑することも多かったけれど、同時にいつの間にか忘れていた好奇心や純粋な姿勢を思い出すことができた。彼女の前に立つとあらゆる現実の呪いが取り払われて純粋でいられる。しがらみがほどけていく。


 後悔もあきらめも思い込みも常識も偏見も固定観念もすべて脱ぎ捨てて、これが自分なのだと、在るが儘ありのままを曝け出してしまえたら。


 ――でも、俺なんか大事なこと忘れてないか?


「……あっ」


 寝不足の頭をもたげた丁度その時、屋上にチャイムの音が鳴り響いた。椎名ときららの遅刻が確定した音だった。

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