家出したから

 まるで悪びれる調子もなく言われる。その瞬間、またしても椎名の腹が鳴った。まさにお腹と背中がくっつくくらいの耐え難い空腹。目の前の皿はまるでこちらを誘うように、芳醇な薫りを漂わせていた。仕方なく体をかがめて、料理が盛られた皿に口を突っ込み、犬食いを始めた。ソースが頬に付いて食べづらい。


「ははっ、本当に地面から食べてる。よしよし、ちゃんともぐもぐできて偉いね。はい、どうぞ、召し上がれ」


 まず出てきたのは野菜のゼリー。テリーヌというらしい。その次にオニオンスープ、キッシュなどが次々と広げられる。そのどれもがまろやかで繊細な味だった。メインは牛肉の赤ワイン煮込みだった。口に含んだ瞬間、肉がほろほろと溶けだし、濃厚なソースが口の中に広がる。椎名は目を剥いた。


「うまい! うまいよ、これ!」


 馬鹿舌の自覚はあるが、手が込んでいておいしいのはわかる。


「椎名はほんとに食いしん坊さんだねぇ」


 髪をわしゃわしゃとかき混ぜるように乱暴に撫でられた。生暖かい吐息に脳が溶かされていく。


「こんなもの初めて食べる……」


「そう、じゃあゆっくり食べるといいよ。ワンちゃん」


 一足先に食事を終えて紅茶を飲みつつ、彼女は柔らかく笑った。きららルールその三、ご飯はおいしく食べること。


「初めて食べる料理の味は、ゆっくり時間をかけて体に覚えさせるんだ。小さいころお母さんに教えてもらった」


 温かい口ぶりだった。椎名は皿から顔を上げて、ソースがべったりついた口元をタオルで拭う。


「お母さん、料理得意だったんだ」


「うん。母親が料理研究家。料理人一家なんだよね」


 そこで椎名は、昨日見たテレビ番組のことを思い出した。


「……そのお母さんって、『素襖すず』?」


「そうだよ。あ、今朝の質問ってお母さんのこと? テレビに出てる『娘』なら双子の妹。ぼくじゃないからね」


 きららに妹がいたのか……というか双子だったのか。きららと話していると、彼女を育てた親や血を分けた兄弟がいることをうっかり忘れそうになる。


「お前は芸能界には行かなかったんだ」


「芸能なんかヤクザと同じで面倒くさいだけ」


 食事を終えて、きららはタッパーを流しにまとめて洗い始めた。その背中をのんびり見ながら宿題を進める。皿洗いする背中は、椎名の母親とそう変わらない。


 そう考えて初めて、料理と、この奔放な女の根底がつながった気がした。人間は、目で見えるものは写真にとれるし、想像したものは書き留めておける。音なら録音できる。でも舌で感じた味はそう簡単には記録できないので、自分の体に刻み付けるしかない。その場でしか味わえない一瞬の触感や快楽に執念を注ぐ。家族と違って料理の道に進まずとも、刹那的な姿勢と鋭敏な感覚がきららの中に息づいているのだ。


 こうして話していたら、ふときららのことが知りたくなった。自分たちの関係は『クラスメイト』であり『探偵と依頼人』にすぎず、椎名は彼女の私生活について何も知らない。部活や委員会にも所属していないため、プライベートは謎に包まれている。いわく警官と顔なじみ、いわく薬物に関わっている。そんな噂を聞いて、地方都市の高校生に何を期待してるんだと初めは笑ったものだが、こうして眺めているとあながち嘘でもないように思える。


「なあ。素襖はどうしてこの街に来たんだ?」


「家出したから」


「……大変だったんだな……」


 相槌を打ちづらい。これは掘り下げてもいいことなのだろうか? 予想だにしない答えに考えあぐねていると、きららはあっけらかんとつづけた。


「あ、いいねその返し。雰囲気をやわらげながら相手から情報を引き出せる。さすが」


 きららは皿を洗い終えて、布巾で手を拭いて俺の方に振り向いた。


「うちの両親はタレント業の他にレストラン経営やコンビニスイーツの監修、レシピ本なんかも手がけてるから、タレントイメージを守るためにめちゃくちゃ世間体気にしてるんだ。それで小さい頃から制約が多くてね」


 彼女は椎名の眼前に座り込む。


「ぼくはね、生まれてから三歳までの記憶がすっぽり抜け落ちているんだ。昔の自分はまるで人形みたいだったらしい。泣くことも笑うこともせずろくに喋らず、無愛想で仏頂面」


 そう言って彼女は語り始めた。


 ――明確な自我が芽生えた時のことは覚えている。三歳の頃のあるよく晴れた日、きらら実家の庭から妹の悲鳴が聞こえて来た。広い芝生の中心に大きな蛇がとぐろを巻いて鎮座していた。おろおろする母と妹。そこできららは考えた。


(もし自分がこいつを殺したら、蛇は、母と妹は、一体どんな顔をするだろう?)


あどけない、しかし凶暴な好奇心だった。


ちょうど目に入ったのはビールの空き瓶だった。昨日、父が後輩を引き連れて酒盛りをした時のものだろう。幼いきららはビール瓶を片手に颯爽と庭へ躍り出て、蛇の頭を叩き割った!


 毒蛇の頭が破裂すると同時に、『ビール瓶が割れて』破片がそこらじゅうに散らばった。破片がきらきらと宙を舞う。


実はきららが手に取ったのはビール瓶ではなく、ドラマやバラエティ用に作られる飴細工だったのだ。勢い余ったのか、力の掛け方が悪かったのか。飴細工の鋭い破片が幼い皮膚に刺さり、手のひらは出血していた。


 母は顔面蒼白になって、蛇が出た時よりも大きな悲鳴をあげた。愛娘の名前を必死に呼びながら、慌てて奥から消毒液と包帯を持って来て、傷口を丁寧に手当てしてくれた。その夜は風呂の代わりに温かいタオルで全身を拭いて、同じベッドの中で抱きしめて眠ってくれた。


 けれどそんなもの、もはや彼女には必要なかった。


 彼女は迷走神経反射の中で気づいた。『死ぬほどに生きる』ことがどれほど美しいのか。傷の痛みが、鮮烈な血が、どれだけ生きている実感を与えてくれたのか。素襖きららの本当の人生はこの日から始まったといってもいいだろう。


「……お前、俺を殴ったり蹴ったりしてるのも同じ動機だろ? 俺がどんな顔をするのか、知りたいからって……。俺は庭の蛇かよ?」


「あっはは! 椎名に蛇なんて狡猾なイメージは似合わないよ。アホなバカ犬がいいところじゃない?」


 失礼に失礼を重ねられてむくれた。


「小学校卒業した後は全寮制の学校に入れられたんだけど、退学になってさ。色んな学校を転々として、最後に箕面に戻って地元の高校に通ってたけど、耐えられなくて海外に脱走した」


「えっ? 脱走?」


「半年間くらいエルサルバドルでガソスタの経営してたの」


 灼熱の中南米、流暢なスペイン語でガソリンスタンド店長業務をこなすきららを想像してポカンとした。似合うような似合わないような。


「でもある日親に雇われたSPみたいなおじさんおばさんが来た。無理やり日本に連れ戻されて、店舗も売却させられて、結局どこかの高校に編入しなきゃいけなくなって……」


 声が怒気を帯び、表情が曇る。


 この娘がこんな風に本気で怒っているのを初めて見た。娘がいきなり外国に家出したと知ったらどんな親でも顔色を変えそうなものだが、親の方も子供を探し当てて無理やり連れ戻すときた。スケールが大きい。


「あの人たちが親じゃない方がよかったよ。向こうもぼくが子供でさえなかったらって考えてるだろうから、別にいいけどね……」


 法律上、友達の縁はすぐ切れても親子の縁はなかなか切れないから。彼女はそう付け足した。

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