事実無根です

 放課後、中間テストの結果を元にした二者面談が行われはじめた。呼び出しは苗字のあいうえお順なので、椎名の順番はわりとすぐ回ってきた。


 面談の場所は一階の大職員室内だ。広い部屋の中に無数の机がずらっと並び、教師達がせわしなく仕事を行ったり、コーヒーを飲みながら雑談したりしていた。中に入ると、赤坂先生は椅子に座って何かの資料を書き込んでいるところだった。


 机には白紙の進路希望調査票がうず高く積まれている。三年生になったら椎名たちも受験に本腰を入れなければならない。それはわかっているけど、書きたい未来は何もなかった。今の面談だって話したいこともないから、できるだけ早く終わって欲しい。


 心の中でそう祈っていたら、赤坂がふっと顔を上げた。側に置かれた椅子に腰掛けるよう言われる。椎名の成績資料を取り出して、


「この成績は……進級も危ういですね。椎名くん、テスト結果はお家の人に見せました?」


「見せましたよ。父さん絶対すげー雷。俺、どうしたらいいんすかねぇ?」


「勉強したらいいんですよ」


 赤坂が苦笑した。


「椎名くんはなりたいものとか、将来の夢とかはないんですか?」


「それがないんすよね~。逆に、先生はどうして教師になったんです?」


 赤坂は少し驚いた顔をして、それからはにかんで笑った。


「子供が好きだったんです。でも、教師になってはじめて、私はクラスをまとめるのがあんまり上手くないってことに気づいてしまって……」


 それから、赤坂は椎名の手を取って優しく握りしめた。思わぬ行動にちょっとぎょっとして、どぎまぎしてしまう。


「だから椎名くんにはとても助かっています。皆が困ってるとき、椎名くんはいつも助けてくれてるでしょう。剣道も頑張ってるし」


 自分が褒められる流れになってしまって照れ臭いが、椎名も調子を合わせた。そしてこんな風に頼られていると分かったら、紺野の言っていた噂について相談しづらい。


 するとそこで勢いよく職員室の扉が開いた。振り向くと、真っ黒な細身の姿が目に入った。素襖きららだ。


 事情を知らない先生達は呆然としている。彼女は職員室中をぐるりと見渡すと、担任の赤坂を目敏く見つけ、ずかずかと中に入っていった。


「どーも、赤坂センセ。面談に来ました」


「あら、ごめんなさい。まだ椎名君の順番が終わってないんです。終わったら呼ぶから、素襖さんは職員室の外で待っててくれませんか?」


「勘違いしてるね。あんたがぼくに質問するんじゃなく、ぼくがあんたに質問するのさ」


 赤坂の笑顔に僅かな警戒が混ざったことを、椎名は見逃さなかった。


「……また何かしてるんですか……。授業妨害、途中退出、無断欠席、最近は高校にまで門限に関する苦情が来ました。自分だけの問題じゃないんですよ? 絞られる立場にもなってください」


「おーこわいこわい。加害者なんだから被害者の立場なんて分かりません」


 赤坂はため息をつく。


「遊びもいいですけど、そんなことばかりしていると大切なものを失うことになりますよ」


「ぼくにとっては高校生業こそ遊びなので」


 などとうそぶいている。赤坂は、お前の与太話に付き合っている暇はないとでも言うように書類の整理を始めた。


「そんな心配しなくていいっすよ、今は俺が面倒見てますから。もう問題起こしません」


「ぼくは今まで問題なんか起こしてないけど?」


「お前は黙れきらら」


 味方に揚げ足を取られた。


「俺が頼んだんです。いま、安西の件について調べてみようと思ってて」


 あーあ言っちゃったよときらら。


「ま、いいか。知ってるんなら話が早い。赤坂はなんか知らないの?」


「知っていたとしても、貴方には話せません。きららさん、まだ転校したばかりだし、あなたには関係ないことでしょう。それにまだ安西君は意識を取り戻していないんです。もう少し様子を見てあげて」


 すると彼女は突然にやりと口角を上げた。まるでイタズラを思い付いた子供のような表情で、嫌な予感がする。


「ところで赤坂、ぼく結構『噂』に詳しいんだよね。それを検証しようと思ってるんだ」


「おい、お前……」


 椎名の制止はあっけなく無視された。きららは周囲の人間にだけ聞こえる位の小さな声でひそひそと耳打ちする。


「『赤坂は高校生と性的関係を持っている』って噂があるんだよね。先生の態度次第では、これも検証したいなってさ」


 椎名は直感的に気づいた。こいつ、赤坂をくだらない口論の俎上に上げるためにわざと彼女を煽ってボルテージを上げようとしている。


 赤坂ははっときららを見やった。さっきまでのいなすような調子とは違う真剣な口調だった。


「……事実無根です」


「体育倉庫の鍵貸してください。すぐ返しますから」


 きららの口調は脅しをかけるでもなく穏やかなものだった。だが有無を言わせない響きがある。


「……分かりました。けれど、悪用はしないでくださいね」


「悪用? ぼくは『デマの検証』のために使うだけですよ。正義の味方といってもいい」


 きららは返答を待たずに体育倉庫の鍵を取り、職員室を出て行く。もう話にならないと判断したのか、赤坂はぐったりしていた。


「相変わらず強烈っすね」


「ええ……。うちの高校が進学実績を重視してるのは知っているでしょう?」


「そーっすね。田舎の高校の割には」


「素襖さんはとても成績優秀で、有名大学への進学が期待できるんです。それにご両親は世間一般にも影響力のある人だから、少しくらい素行に問題があっても、学校としては彼女を手放すわけにはいかないんです……」


 大人の事情らしい。いくら子供好きだといっても、まだまだ新人の部類でモンスター生徒を担当するのは大変そうだ。


「俺、あいつ追いかけてみますわ。何かやらかしてたら止めます」


 彼女をいなしてから、椎名も後を追う。廊下に出ると足早に階段を降りて、下駄箱で靴を履き替え、校舎を飛び出す。


「きらら! さっき赤坂先生に何言ったんだ?」


「『噂』を教えただけ。まああんま気にしなくていいよ。あんな先生、頭悪いし、話しててもつまんないから嫌われてもいい」


「嫌われてもいいって……」


 きららは椎名の方を見もしないで、ひらひらと手を振った。好き嫌いの問題ではない気がするし、きららこそ椎名史上最大の横柄女なのだが。



 二人は改めて体育倉庫へ向かう。野球部やサッカー部も練習を終えたようで、校庭は既に薄暗くなっていた。真っ白なライトが煌々と光っている。


「現場検証が遅くなったけど、昨日は先生達がいたから仕方ないね」


「もう体育倉庫が使えるようになったってことは、やっぱ安西の怪我は事故だったのかな?」


「すぐには断定できないんだろうね。この倉庫、見るからに古い施設なうえ女子更衣室のすぐそばだから、監視カメラが設置されてないみたいだし」


 目ざとい。言われるまで気づかなかった。


「あるいは学校や保護者に口止めされて、伏せられているか。だってこんな事件、ニュースになってもいいと思うよ」


 きららが鍵を開けると、埃っぽい匂いが鼻腔に流れ込んできた。彼女はずかずかと倉庫に上がり込み、周囲を見渡してからニンマリと笑った。椎名もそれに続いて中に入る。


 安西を発見した時から、器具の配置は変わっていない。ボール、カラーコーンやギブス。入り口近くには、野球の授業で使うバットが沢山しまわれていた。きららはきょろきょろと中を見渡すと、隅に落ちていたずた袋に目を向け、それから天井を仰ぎ見た。


「……椎名。肩車して」


「なんで?」


「ぼくがやってってお願いしたらやるの」


「へいへい。分かりましたよっと」


 きららルールその二。きらら様には絶対服従。


 椎名は生返事を返してしゃがみこんだ。きららは椎名の右肩に太ももを引っ掛け、それから左ももを載せてきた。


 池から引っ張り上げた時は椎名も必死だったから気づかなかったが、こうして全体重をかけられると、皮膚の下に熱くうごめく肉と内臓が詰まっていることを実感させられる。何も女子が紙風船でできていると思っているわけではないが、それにしたっって、


「……お、重っ……!」


「うるさいよ」


「むぶっ」


 ふくらはぎで頬っぺたを軽く蹴られた。それから太ももの柔らかい肉が頬を押し潰し、新鮮な熱と生々しい体重が椎名の首に押し付けられた。


 なんだか納得いかないが、とにかくきららを肩車したままゆっくりと立ち上がる。


「椎名が見た青海波って砂を掻いて作った模様だよね。それで安西の体にも妙な跡が残されていた」


 彼女が体を動かす度に、太ももの内側の柔らかいところが頬に触れた。女の子特有の湿った匂いがして落ち着かない。


「でもそれ自体には『意味が無い』んじゃないかな」


「はあ?」


 眉をひそめて頭をあげた。下乳しか見えなかった。


「あの模様は校庭から砂を回収するために作られた、副産物にすぎない。誰かが、安西を昏倒させた後に『砂を袋に詰めて踏み台にして』天井に何かを隠した」


 きららが手を伸ばした梁の先から、遂にコトリと何かがぶつかる音がした。きららはそれを掴むやいなや、椎名の背から飛び降りる。


「ウワッ! あぶねえって」


 叱咤をよそに、きららは目を輝かせる。


「これだ! 安西を殴った犯人は、限られた時間の中でこれを隠したかったんだよ」


 彼女は埃に塗れた小箱を大切な宝物のように掲げる。窓から電灯の無機質な明かりが差し込み、肉付きのいい体を西洋の絵画のように明るく照らしだした。


 きららはしゃがみ込んだまま小箱を見つめて眉根を寄せ、何やらぶつぶつ早口で呟き始めた。鍵がかかっていて開かないようだった。


「中には何が入ってるんだろう。形状からしてヘアピンで開けられそうもないし、型番つきの既製品でもない。錠前を型どりして鍵を複製するべきかな? 二重鍵やセキュリティつきかもしれないから、ここは慎重にいかなきゃね。マイナスドライバーとかで物理的にこじ開けてもいいけど」


「物理って、そんなことできるのか。器用だな」


「まーね。ガス溶接とアーク溶接の資格もってるし」


 それからきららはいきなり問いかけた。


「椎名。スケジュール帳持ってる? いますぐ出して」


「持ってるぞ」


  椎名は懐から手帳を出して放った。別に見られて困ることは書いてない。すると彼女は手帳を開くやいなや、あすの創立記念日の所に赤ペンでぐるぐる印をつけた。


「この日、ぼくと出かけるからね。わかった?」


「映画見に行く予定あんだけど」


「却下」


「いいけど、どこ行きたいんだよ?」


「ホムセン」


 椎名は閉口した。


「あのさ……体育の授業の時、俺のこと『好きなタイプ』って言ってただろ。あれと、探偵を名乗り出てきたこと、関係あんの?」


「ああ、あれね。椎名はぼくの言うこと聞いてくれそうだったから。ぼく、都合のいい人間が好きなの」


「さ、最悪! 最悪だコイツ!」


「理由は他にもあるけどね。でも、それはまだ秘密」


 きららはくすくす笑った。


 別にいいけど。デートなんて、最初から期待していない。

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