4章

雲母

 窓の外から雀の鳴き声が聞こえる。飼い犬・シノがチャッチャッと走り出て薄手の布団を引きはがす。いきなり朝日に晒されて、椎名八房は目を細めた。


「うわっ! ……って、やべえ遅刻!」


 枕元に置かれた目覚まし時計の針は、いつもの出発時間ぎりぎりを指している。アラームはとっくの昔に止まっていた。あまりにも椎名の寝起きが悪いので愛想をつかしてしまったらしい。


 あわてて制服を着込んで、一階のダイニングに降りる。母親がテレビを観ながら朝食をとっていた。机の上には、バタートーストとハムエッグ、牛乳の入ったコップが手つかずのまま並べられている。


「母さん、なんで起こしてくれなかったんだよー!」


「だって、気持ちよさそうに寝てたんだもの~」


 相変わらずのんびりしている。


 八房の母・つばきは今年で四十なかばになる。いわゆるたぬき顔というやつで、まんまるい朗らかな面貌をしており、息子の八房とはあまり似ていない。デザイン事務所で働いているが、フレックス勤務のため出勤時間が遅いのだ。


 つけっぱなしのテレビでは情報番組が映っていた。ひな壇に並んだ女優やタレントが、主婦向け家庭料理についてトークしている。


 カメラがひな壇の一人をアップで抜いた。二十年くらい前に美貌とキレのあるトークで一躍ブームになり、有名芸人と華やかな結婚式を挙げた料理研究家。よくテレビに出演しているし、絶対にどこかで見かけたのに名前が思い出せない……と思っていたらテロップが出てきた。料理研究家の素襖すず。


「……素襖?」


 パンを食べる手が止まる。よくある苗字というわけではない。背が高くスレンダーな体型、きつい印象の中年女性ではあるものの、同じクラスのきららとよく似た整った顔立ちだ。


 続いて画面に映し出された『すずの愛娘』の顔立ちはまさにきららそのものだった。長い黒髪、整ったアンニュイな顔立ち。眼光や微笑みはいつも見ているものより幾分柔らかい。娘は社会奉仕活動に熱心で、様々な施設にボランティアに赴いて食育を行っているらしい。ノブレス・オブリージュというやつだろうか。


「いつまでテレビ見てるの? もうお父さん出ちゃったからね。早く出ないと遅刻しちゃうわよ~」


「はーい。あ、母さんこれ中間テスト」


 紙飛行機に折ったテストを母親に差し出した。中身を確認して、彼女は血相を変える。


「……二点? 八房待って、この点数何?」


「行ってきまーす!」


 パンを牛乳で流し込み、母親から逃げるように家を飛び出した。




「なあ、お前って芸能人なの」


「んなわけないじゃん」


 一限目。朝方のニュースに関する会話は二秒で終わり、きららはそのまま机に突っ伏して居眠りし始めた。授業がつまらないにしたって、よくそんなに眠れるものだと思う。昼夜逆転しているのかロングスリーパーなのだろうか?


 椎名は頬杖をついて、憮然とした表情で彼女を見やる。確かにこんなのが社会奉仕に熱心なタレントというのも疑わしい。でも、朝方見た顔はどう見てもきららそのものだったのに。


「……な。椎名、問四の答えは何だ」


「え、あっ? 俺っすか?」


 隣の席の女に気を取られていて、授業が右から左へ筒抜けになっていた。椎名は慌てて正面に向きなおり、手元の教科書をめくる。その焦りようを見て、教壇に立つ地学教師は教科書をぱしぱし叩きながら笑った。


「まさか聞いてなかったのか? 黒褐色、薄くはがれるのが特徴の有色鉱物の名称だ。答えろ~」


「えーと……雲母きらら?」


「わっはっは! 黒雲母くろうんもだよ。きららといや、隣の娘の名前と同じだな。ボーッと隣の娘ばっか見て、色ボケしてんじゃないか?」


「んなわけないっしょ!」


 頼むから委員長の前でそんなこと言わないでくれ。


 椎名は身長も声も大きく目立つ方なので構われやすい。この教師なんかそれをちゃんとわかっていて、生徒の笑いを取るためによく椎名を弄ってくる。


 自分を『そういう役割』と規定したのは椎名自身なのでそれ自体は気にならない。でも安西を殴った元いじめっ子という噂が広まっているからか、教室には生温い空気が漂っていた。いつものように笑っていいのか測りかねている。


 視界の端で、紺野が不機嫌そうに顔を歪めるのが見えて、いたたまれない気持ちになった。あれからまだ話せていない。椎名の方もきららの世話にかかりきりで、自然と溝が深まっていた。

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