茶道体験

 正座とあぐらをかく椎名達の前で、灰戸は静かに茶を立てる。きららの視線は茶を立てる手元に注がれていた。灰戸の手指にはいくつもの細かい傷がついている。所謂『働いている手』というやつだろう。彼女らしい。


「はい、できました」


 灰戸がお茶を立て終わると、まずは近くに座っているきららが器を受け取った。


「お手前頂戴します」


 重厚な茶器を手にして、少し回転させ、静かに唇をつける。その横顔を隣で見つめていた。

 中身はともかく、彼女の雰囲気は静謐で妖艶で大人びている。華やかな灰戸の隣にいるとより顕著で、たとえるならベルサイユ宮殿と竜安寺だ。寂れた和室で茶器を手にしている姿が妙に似合う。

 眠たそうな印象を受ける重い瞼が伏せられる。近くで見て初めて、彼女の瞳は黒ではなく暗い藍色なのだと気づいた。鼻だってつんと高い。近くで見ようとしなければきっと、黒髪に黒セーラーというイメージに圧倒されて気づかないままだったろう。

 きららが一口を飲み終えると、茶器がこちらに回ってくる。椎名は首を捻り、


「……これこのまま飲むのか?」

「ううん、茶器を回転させて、口がつかないようにするのよ」

「本当にものを知らないんだね~」


 きららに煽られた。うるさい黙ってろと思いながら丸い器を少し回転させ、口が付かないようにして抹茶を飲み込んだ。ほろ苦いけれど深みがあって美味しい。

 茶道体験を終えてから切り出す。


「全然関係ないんだけど、資料室に青海波の着物があったよな? あれ見たいんだけど」

「いいわよ。日本舞踊部は休部中だから、生徒たちは触れないんだけど」


 委員長はあっさりと了承し、奥にある資料室に二人を案内してくれた。神社の鳥居型のハンガーに、柄がよく見えるように立てかけられている。着物は鮮やかな青と黒のグラデーションで、青海波柄をしている。


「この着物掛けは衣桁っていうんだ。ちなみにぼくの苗字の『素襖』っていうのも、着物の種類の一つなんだよ。室町時代にできた庶民向けの礼服の名称なの」


 知は力なりとばかりにきららが嘯く。


「へー、知らなかった。詳しいな」

「まあね。ところで委員長、この着物、売ったらいくらになる?」

「わからないけれど……百万円くらいじゃないかしら?」


 質問の意図をはかりかねてか、灰戸が首を傾げた。きららは二人のことなどお構いなしで、身を乗り出して着物をまじまじと覗き込んでは勝手に写真を撮っている。

 きららはしばらく着物を眺めていたが、やがて頭の後ろで腕を組み、唐突に宣言した。


「茶道部に来た意味はあったよ。でも他にも確かめたいことがあってね、もうこれはいいや。ありがと椎名、委員長!」


 きららはそう言うと、上履きをつっかけ文化会館を後にする。椎名と灰戸が何か言う隙さえなかった。

 まるで台風の目でのんびり胡坐をかいているような女だ。周囲は振り回されっぱなしだというのに。




 嵐が去ってから、絞り出すようなか細い声で名前を呼ばれた。


「ねえ、椎名くん……」


 一体何の用だろうと顔をあげると、灰戸はちょっと目を逸らして身をよじり、恥ずかしそうに切り出した。白い頬を紅く染めて俯いている。

「確か、お家駅東方向だったわよね? 良かったら、でいいんだけど……そろそろ雨が降りそうだから……あの…………一緒に帰らない?」


「……ああ、いいよ」

「良かった! ありがとう」


 舞い上がりそうになる気持ちを抑えて返事をしたら、声音がいやにこわばった。

 ――好きな子と二人で帰るなんて夢みたいだ。女子と一緒に帰る、たったそれだけのことが、こんなにも嬉しいものなのか。いや、でもこれはデートではなくただの下校、たまたま帰る方向が同じだけ。向こうだってきっとそう思ってるはずだ。勘違いしたら痛い目を見るぞ? 

 連れ立って玄関に向かうだけで緊張が止まらなかった。下足箱から靴をひっかける。

 下足箱にはまだクラスメイトの靴がぽつぽつ残っていた。テスト期間でもないのにこの時間帯に家に帰るなんて久々だ。今頃部活の皆は大会の練習しているんだろうなと思うと、置いてかれた気分になって、外の明るさがせつない。俺も家で筋トレくらいはやっておくかな、と椎名は思った。

 灰戸は先に玄関を出ていった。たおやかな背中を見つめていると、視線に気付いた彼女がこちらを振り向く。


「椎名くん?」


 小首を傾げながら呼びかけられて、心臓が高鳴った。平静を装いながら彼女のもとに向かった。


「よかったら荷台に乗るか?」


 尋ねると、彼女はすんなり了承して荷台に乗った。

 ペダルを軽快に漕ぎ始める。細づくりの見かけの通り、彼女はびっくりするくらい軽くて、二人乗りしている気がしない。狭い荷台に乗る灰戸は黄色い声をあげて、椎名にしがみついた。体温が背中に当たりそうで当たらない距離感が落ち着かない。


「すごい。鍛えてるんだ」

「あー、まあ、少しはな。たまに朝早起きして河川敷とか走ってる」

「河川敷って、あの赤い橋がかかってるとこ? すごいね」


 正門前の長い坂をゆっくり下っていく。青空がペールオレンジを経由して、山際はやさしい朱色に染まっていた。遠くの丘陵が群青色に見える。


「今日は来てくれてありがとう。でも、どうして着物なんか?」

「笑わないで聞いてくれるか? この前、安西が怪我しただろ。その倉庫の傍に、この着物と同じ模様があったんだ。きららが言うには、もしかしたら安西の事故の真相が分かるかもって」

「そうなの……?」


 経緯を説明し『噂の犯人探し』だと告げると、灰戸は言葉に詰まっているようだった。恐らく戯言に困惑しているのだろう。そりゃ何を漫画みたいなこと言ってるんだって驚くだろうから、気持ちは分からないでもない。


「……安西君の怪我は残念だったわよね。でも、あの体育倉庫は薄暗い、普段誰も使わない所だから事故も起こるだろうし仕方ないわ。椎名くんがレギュラー? から外れたのだって、テスト絡みで部活が休みになったからなんでしょ。誰もあんな噂なんて信じてるわけないわ」

「そうだといいんだけどな。でも皆、安西のことが心配だからこそ俺を疑っちゃうんだと思う」 

「……そっか。優しいのね、椎名くん」


 灰戸は健気につぶやいた。

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