シンデレラ姫

 きららは焼きそばパンの包装紙を捨ててから戻るというので見送った。椎名がひとりで教室に戻ると、少女が水槽のそばに立っているのを見つけた。水槽で泳ぐ魚たちを愛おしそうに見つめ、甲斐甲斐しく餌をやっている。


「お疲れ、灰戸」


 少女が振り向いた。柔軟剤の芳香だろうか、花の濃い香りがふわりと立ち込める。

 彼女こそが、二年六組の学級委員長の灰戸だ。色素の薄い髪の毛を二つ結びに纏めている。大きなたれ目に長い睫毛、小ぶりな鼻やぷっくりした小さな唇。まるで砂糖菓子を精緻に彫って作った人形のようだ。その清楚な美貌から、ついたあだ名はおとぎ話の『シンデレラ』姫。椎名が淡い想いを寄せている相手でもある。


「いつもの餌やり?」

「ええ、そうよ」


 この金魚を世話しているのは灰戸だ。細々とした所まで行き届いた思いやり、ともすればおせっかいな性質。椎名は彼女のこういう所が好きだった。


「でも何でか、金魚が二匹少ないのよ。死んでる子もいるし、どうしちゃったのかしら……。いたずらされるなら、もう持って帰ろうと思って……」


 椎名は半目になってごまかし笑いした。『素襖が食べてた』と言うのも気が引けた。水槽の中では、数匹の金魚がぷっくりした白いお腹を見せて浮かんでいた。

 ちなみに『シンデレラ』というあだ名にはもう一つの由来がある。灰戸は目を引く華やかな容姿の割に、雑用を担いがちな性格なのだ。不人気の委員長職を自分から引き受け、クラスから浮いているきららの世話を焼いてあげてもいた。とはいえ、束縛を嫌うきららからは相手にされていなかったようだが。

 ひょっとしてきららが金魚を食べたのは灰戸への嫌がらせなのかと考えて、その考えを打ち消す。きららは確かに社会性のかけらもないが、他人に全く興味がないゆえに、歪んだ動機で嫌がらせをするタイプには見えない。『わくわく』以外のすべてがどうでもよさそうだった。

 灰戸は控えめに微笑んだ。


「この前の体育、ありがとう。きららちゃん、私のことが苦手みたいで、まだ女の子とも上手くやれてなくて……。だから、椎名くんがきららちゃんを連れてきてくれて、とっても安心したのよ」


 内心納得した。言われてみれば、きららが女友達と連れ立っているのを見たことがない。第一印象を抜きにしても近寄りがたい位の美人だし、持ち前の屁理屈で他人に喧嘩を売りまくる様子が容易に想像できる。避けられるというより怖がられている。

 椎名だって、きららがあんな態度でさえなければ、可愛い子とお近づきになれたって素直に喜べたのに。ままならないものだ。


「その、そういえば……疑うわけじゃないんだけど、委員長は安西が殴られた時どこにいたんだ? もし体育倉庫の近くにいたなら、『椎名はやってない』って証言してほしいんだけど」

「ごめんなさい、その時はちょうど部活中だったから力にはなれないわ……。でも、私は『椎名くんが安西くんを殴ったりするはずない』ってわかってる。だから気にしないで」


 すると彼女は意外なことを切り出した。


「ねえ、今日の放課後空いてたらうちの部に来ないかしら? 来月、市役所でイベントがあって、そこで茶道体験をやるのよ。その前に誰か誘って練習しておきたいの」


 思わぬ嬉しい誘いだった。つとめて平静を装いながら、


「茶道体験かー。でもなんで俺?」

「赤坂先生が、椎名くんは期末テストまで部活に行かないって言ってたわ。だから、時間あるかなって……」


 灰戸が微笑む。彼女が紺野の噂を気にしていないのは、オーダー変更の本当の理由を知っていたからだろう。


「全然行く! どこでやるの?」

「離れの文化会館のお茶室を借りてるの。茶室でお茶とお菓子をいただきながらおしゃべりするのよ」


 文化会館と聞いてはっとした。これはきらら案件だろう。せっかくの灰戸の誘いをあの女に邪魔されるのは容易に想像できるが、椎名がついていれば無茶はやらないはずだ。


「なあ、それってきららも連れて行っていいか? あいつ、そういうの好きそうだし、灰戸も人数が多い方が練習になるだろ」

「そうなの? もちろんいいわよ! 地元の和菓子屋さんのお菓子を用意してるって教えておいてね」


 いざ見学を申し入れると、灰戸は淑やかに微笑んでくれた。

うちの高校の茶道部は万年廃部寸前で、今の部員も灰戸だけ。茶会を開こうにも人数不足で開催できないということが続いていたから、見学に来てくれたことだけでも嬉しいのだろう。


「私、前から椎名くんは茶道に向いてると思ってたのよ。剣道も茶道も同じ、和の精神を受け継ぐ道だからね」


 シンデレラにこんな顔をされたら、多少無理な頼みでも断れない。灰戸であればオールオッケー。胸の高鳴りが止まらない。まったく恋心とは困ったものだ。




 その日の放課後。椎名ときららは茶道体験に赴いていた。

 文化会館の建物は校舎裏手の植物園の中にある。校舎から文化会館までは長い石畳で結ばれており、草木の緑、咲き乱れる花々と、ついでに小さなイモムシ達を見物できる造りになっていた。

 初夏の日差しがぽかぽかと温かい。並んで歩きながら、


「うちのクラスの委員長が茶道部所属で、文化会館にも入れてもらえることになったんだ。資料室に入れてもらえるように、頼んでみようぜ」

「委員長って、灰戸?」

「ああ。一年生の時から同じクラスだったんだ。紺野の噂を信じてるわけじゃないみたいだし、信用できるぜ」

「ふーん。椎名の『信用できる』って結構ザルだから、聞かなかったことにしとく」


 きららは半目になった。


「おい、それどういう意味だよ」

「べっつにー。茶道って茶室でお茶を立てるやつでしょう。おいしいお茶が飲めるといいんだけど」


 結局食べ物の話に着地した。こいつ、意外に食い意地張ってるのかも、と椎名は思った。

 文化会館の入り口には線の細い少女がひとり立っていた。灰戸は椎名の姿を見つけるやいなや、繊細な顔立ちをぱあっと華やかに綻ばせ、一直線に駆け寄ってきた。


「急な頼みだったのにありがとう!」

「全然気にしねーよ。むしろ嬉しかったくらい」


 彼女はそれからきららのほうを見て、


「きららちゃんもお茶に興味があるのかしら?」

「もちろん。普段は紅茶しか飲まなかったんだけど、日本茶にも興味が湧いてさ。茶道って興味あるけどやったことないんだよね」


 きららは表情ひとつ変えずしれっと答えた。えーっ、さっきまで『わびさびとか分からないんだよね、犬に食わせればいいのに』とか言ってたくせに……。

 灰戸は目尻を細めてはにかんだ。まるで人形のようで愛くるしい。


「そうなのね! 本番も初心者向けのイベントだから、マナーはそんなに気にしなくてもいいわ。楽しんでくれたら嬉しいな」


 彼女の案内で、まずは上履きを脱いで茶室の前に揃える。腕時計やアクセサリーは外さなくてはならないようだ。

 案内された部屋はこぢんまりとした和室だった。きららは正座を我慢できないようで、何度か足を組み替えて、最後にはあぐらをかきはじめた。


「椎名はよく我慢できるね。剣道部だから?」

「まあな! お前は……その姿勢やめろよ……」


 スカートから黒ストッキングに包まれた脚が伸びて、横座りの姿勢で組み合わせられていた。きららが礼儀や落ち着いた娯楽を理解できるとは思っていないが、如何せん目のやり場に困る。

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