3章
変態くん
週半ばの水曜日。きららは昼前になって登校してきて、のんびり机で寝息を立てていた。椎名はそれを横目で見つめながら、気楽なもんだと心中で考えていた。
依頼こそ引き受けてくれたものの、椎名がついたところで何かを改めるつもりはないようで、きららのマイペースは相変わらずだった。
まず学校に来なかった。無断欠席し、授業を途中で抜け出し、気が向いたら寝たりもしている。いざ教師に当てられれば、馬鹿の椎名にはさっぱりわからない高度な質問をして教師を困惑させている。
彼女はそこが教室だろうが学食だろうが、自分の家でくつろいでいるかのようなふるまいをした。この学校の制服を着るつもりもないのか、ジャンパースカート指定の高校でたったひとり真っ黒なセーラー服で登校していて、それがまた彼女の不穏さを引き立てている。
きららは台所に置かれた包丁に似ている。そこにあって当然なのに、気をつけなくてはいけないような危なっかしさがある。顔が可愛いからと油断していたらいきなり喉笛を裂いてきそうな。
二年六組『以外』の生徒には、彼女の美貌に惹かれていきなり告白する勇者達もいたが、全て無慈悲に振られてしまったらしい。きららがどんなに意味不明で傍若無人なふるまいをしても――進学校の事なかれ主義か、破滅的行為を除けば文武両道の美少女だからか――周囲は「あの子はああだから」と半分匙を投げた調子で受け入れてしまう。素襖きららは特別だった。特別であることが許されていた。
そして椎名といえば、なんとなく彼女を避ける気にはなれないのだった。
椎名からすれば、きららのことを理解してもいないのに、許容するしないを決める気にはなれなかったのだ。彼女は偉そうな口調の割に気取った感じがなく、目立ちたいとか、他人にちやほやされないとヘソを曲げるタイプでもなかった。むしろ彼女の意識には他人の目というものが存在していないように見える。
この世には何十億と人間がいるんだから、ひとりくらい変な奴が変なまま存在していたっていい。
もし安西が元気だったなら、お前はお人好しだと笑うのだろう。
昼休みになったので声をかけようとした瞬間、ぱちっと彼女の目が開いて視線が合った。
「起きとったんかい! 午前ずっと伏せてたから寝てるのかと思ったわ」
「寝てたよ、さっきまでね。授業の進み遅くてつまんないんだもん」
きららは教科書と黒板を見比べながら欠伸をした。
「あー……。六組は『ボンクラ』だからなー」
きららが小首をかしげる。
「うちの高校、一組がサイエンス科で二組から八組が普通科だろ? それに加えて、二年生になると進度別でクラス分けされるんだよ。二組が理系ハイクラス、三組が文系ハイクラス、四組から八組までは『平凡クラス』略してボンクラ。きららは転校生だから、とりあえず六組に入れられたんだろ」
大阪だか徳島だかどこから転校してきたのかは知らないが、もしやトップレベルの進学校出身なのかもしれない。それなら授業もつまらなく感じられるだろう。
「ところでお前、昼休み暇? 一緒に飯食べようぜ!」
右手で弁当包みを掲げてみせた。
いつもは安西や紺野と昼飯を食べていたが、安西は未だ入院中だし、紺野達とも昨日から仲直りできていないので誘うのははばかられた。それに何より、安西の話の続きがしたい。
「いいよ」
きららはニッと笑う。しかしすぐに声を潜めて、
「椎名。このクラスでお前が安西を殴ったんじゃないかと思ってる人はそれなりにいる。今みたいにぼくみたいなのとつるんでたらなおさら警戒されるよ。二人きりになれるところに行こう?」
「え? うん!」
言いくるめられて曖昧に生返事を返した。自分が浮いているという認識はあるらしい。
確かにクラスメイトの前で噂の話をするわけにもいかないので、二人は教室の外に移動することにした。
向かったのは、屋上へ続く蒸し暑い人気のない階段。階段の一番上にある扉は錆びた錠前で鍵がかけられ、ほこりをかぶった予備机で封鎖されている。
「ふうん、屋上には出られないんだ」
「ああ。でもどこの学校もそうなんじゃねえの?」
「つまんないの」
「だよな。で、あの……お願いなんだけどさ。昨日のこと……委員長に話すなよ」
「何を? 口に出してくれなきゃわかんないよ」
本当はとっくにわかっている癖に、わざととぼけているのだろう。心の中にわずかなくやしさを覚え、子供みたいにシャツの裾を引っ張ってしまう。
「だから、その……首切られて勃ってたことを委員長に言わないで……!」
「それはお前の今後の態度によるよね。人にお願いするときはどうすればいいのか、学校で習わなかった?」
――悔しい! こいつが突然斬りかかってこなければ、『あんな』ことになったりしなかったのに、なんでこんな態度を取られないといけないんだろう。っていうか、俺はどうしてあそこで勃起してしまったんだ? 今までそんな嗜好はなかったはずなのに。
それでも弱みを握られて圧倒的に不利なのは椎名のほうだ。下唇を噛みしめながらしゃがみ込み、それから地面に頭を擦りつけて土下座の姿勢をとった。床に薄っすら埃が積もっているのも、傷だらけのリノリウムの床も、彼女が履いている靴もよく見える。
別に本心から服従する必要なんてない。今はただポーズを見せればいいんだ。
「お願いです……。昨日のこと、委員長には……言わないで……ください……」
「ぷっ、あはは! 椎名……可愛いっ」
次の瞬間衝撃で視界がぶれた。きららに頭を軽く蹴っ飛ばされたのだ。
鼻先が床に押し付けられてひしゃげる。血が吹き出して来るのがわかって、鼻腔が鉄の匂いで満ちた。地面の埃が舞い上がって気管に入り、体の内側から擽られているような感触になって軽く咳き込む。
「ぼくは優しいからお願いを叶えてあげるよ、変態くん。男のくせに恥ずかしい奴」
意外なほどにあっさりと彼女は了承したが、同時に後頭部を踏みつけられる。頭蓋骨が割れてしまいそうなほど強い力で押さえつけられていた。脳みそがぐちゃぐちゃにかき混ぜられているような不快感と激痛が走る。
やっと足が離されて、のろのろと起き上がった。鼻血を垂れ流しながら立ち上がって睨みつける。だがきららはその視線を意にも介せず懐からティッシュを出して、椎名の鼻血を乱暴に拭う。安い紙のざらざらした感覚が人中に触れた。そのゴミがスラックスのポケットに捩じ込まれる。
こんな態度を取られたら意地を張っている方が間抜けに見える。だからそれで椎名の『お願い』は終わった。何事もなかったように振る舞わなければ、と思いながら後頭部を手で払った。
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