全身を強く打って

「今俺が濡れ衣をかけられてるのも、あの頃友達を助けられなかったことへの神さまからの罰なのかもな」

「ばかばかしい! 神なんて居ないよ」


 きららは口端を歪めてせせら笑った。


「うまい悪意のぶつけ方を教えてあげようか? それは正義に擬態することさ。告発者こそ正義たる被害者、相手が異常なる加害者なんだって決めつけてね。椎名の噂の場合、デマの発信者が不明なままひっそり流布してるから、反論したって滑稽なだけ」


 きららは舌なめずりしている。真っ黒な瞳がぎらぎらと輝いていた。まるで獲物を見つけた鴉。


「椎名のことをずっと観察していたけど、お前は計算で人畜無害を演じているわけじゃなく、良くも悪くも本当に裏表がない性善説の馬鹿だよね」

「ば、バカって言うな!」

「だってそうでしょ。ぼくのテキトーな屁理屈にもろくすっぽ反論しないし、知り合って日の浅いぼくに何の警戒心もなくペラペラものを話してるし」


 言われてみればそうかも……? 椎名は間の抜けた表情で首を傾げた。


「ぼくは椎名が真犯人だとは思えない。そこで提案がある。ぼくが探偵となって真犯人を見つけ、お前の濡れ衣を晴らしてあげよう」


 椎名は口をつぐんだままでいた。とりあえず猫の手、いやきららの手でも借りたいのは事実だ。でもそれこそ『知り合って日の浅い』間柄なのに、なぜこんなことを言い出したのだろう。

 するときららは、椎名の逡巡を見抜いたように切り出す。


「乗り気じゃないね椎名。信用できないんだろ。『ただより怖い物はない』って言うもんね。でも安心して、ただでとは言わないよ? 対価が必要だ」

「金とんのかよ⁉」

「あはは! なわけ」


 きららは笑い、ロッカーから飛び降りた。空が真っ赤に輝いている。


「お代は『わくわくすること』」

「……わくわく?」

「ぼくは感性が鈍くてね。この世界は面白いはずなのに、もっと楽しいはずなのに、何を試してもいまひとつ感情を動かせないみたいなんだ。ありていに言えばつまらない。だから知的好奇心を刺激されるような『わくわく』が欲しいのさ」


 きららは悠然とのびをして、くるりと爪先で一回転する。上履きが床に擦れてキュッと音を鳴らした。スカートがふわりと広がって、黒いストッキングに包まれた太ももが覗く。

 そして次の瞬間、彼女の上履きがいきなり床を蹴った。


「いいかい椎名? 人を脅すときはこうやるんだよ。そんなポールの一閃じゃだめだ!」


 こちらに飛びかかってきた。とっさのことに反応出来ず、されるがままに押し倒され、教室の床に叩きつけられる。体幹は強い方なのに重心を狙われたのでひとたまりもなかった。

 視界がチカチカする。後頭部の激痛に呻いていると、胸板にきららが跨ってきた。俊敏すぎる。

 彼女の豊かな乳房が椎名の体に触れている。だが目の前の女が恐ろしくてとても官能どころではない。

 彼女は懐から折り畳みナイフを取り出し、手首にスナップをつけて刃をひりだしたかと思うと椎名の頸動脈めがけて突きつけた。


「最高の『謎』で、ぼくの全身を強く打って。椎名!」


 鋭くつめたい刃が首元にぴったり押し付けられ、首筋をゆっくりとなぞった。依頼人を脅迫する探偵があるか。


「やっ、やめろ……!」

「言うこと聞けないなら殺すけど」


 抵抗むなしく、刃先が首を切り刻んできた。じわっとした熱感と痛みののち皮膚が薄くめくれて、そこからうっすらと鮮血が滲み出てきている。まさか本当に切りつけてくると思わなかった。下手に刺激したらやられるという本能的な確信があった。

 はあはあと浅い呼吸を繰り返しながら、少女の機嫌を伺う。今までこんな凶器を隠し持っていたなんて。てらてら光るナイフを横目で一瞥し、椎名は生唾を飲み込む。しかしそれは戦慄からではなかった。むしろ喜悦であり興奮だった。


 ――これだ。俺の、ずっと欲しかったもの!


 自分たちには同じものが欠けている。刺激的な運命をはてしなく求め続けるロマンチスト。代わり映えしない日常も自分のことも全部壊したい衝動にとりつかれている囚人。こんなにも得体の知れない退屈を抱えているのにそのぶつけ先が分からない――否、ぶつけ先がそもそも存在しないのだ。

 思い返してみれば、きららと話したいと思った動機はお節介や正義感だけじゃなかった。羨望があった。箱詰めの教室、常識の呪縛の中で、あんな行動をして平然としていられる傲慢で素直な狂気が皮肉抜きで羨ましかったんだ。

 椎名が言うと妄想や言い訳と片づけられるような考えでも、きららが口に出した瞬間、それは現実味を帯びる。こいつならやりかねないという妙な気迫がある。この美しい女は椎名の友人の誰よりも凶暴で、逆らう事などできないのだ。一般人に見える異常者。理論武装した狂気。歩く不謹慎。強くて毒々しくて自分らしくて孤独が似合って、そんな彼女から目が離せない。


 なぜこんなにも惑わされている? 教室の出口はすぐそこだ。いまならまだ、きららの脅迫をなかったことにして、廊下へ引き返せる。けれど引き攣った笑みが抑えられなかった。

 思考はいらなかった。気づけば震える唇から言葉が飛び出していた。


「……わかった。犯人を見つけて、俺の濡れ衣を晴らしてくれ」

「勿論。約束ね」


 きららが笑みを深くした。そして視線を下へ滑らせたかと思うと、さもおかしそうに目を細めた。


「あれ? ここ、どうしたの」

「えっ?」


 耳元で囁かれる。

 きららは片手で器用に椎名のベルトを外し、スラックスの前をくつろげる。するとボクサーパンツの下で怒張した男根があらわになった。そしていきなり敏感な部分を撫でられた。


「首を斬られて、それで嬉しがって勃起してるの?」

「ちが……ッ、そんなんじゃ……」

「男って変なの。面白いねぇ」

「ああっ……うっ!」


 彼女の人差し指で、『それ』をピンと弾かれた。鈍痛と快感が走り、一瞬頭が真っ白になって声を抑えることができなかった。きららはそれを見て舌なめずりする。


 ――俺は一体なにをやってるんだろう? 本当に解決を求めるなら警察や家族に相談した方がいい。窮地に陥りかけているというのに、こんな女の甘言に従って、安全な道を踏み外して足場を破壊しようとしている。


 けれどもうそれでよかった。俺はもう楽しんじゃいけない喜んじゃいけない、皆のために行動しなきゃとずっと自分を縛っていた。でも本当は楽しみたかったし喜びたかったし胸の高鳴りを抑えたくなかった。平和で優しい偽りだけの世界などクソ食らえだ。ひりつくような煌めきを追いかけてみたい。


 小さな頃の夢だったんだ。主人公になって、冒険してみたいって。






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