世界が鈍色に見える

「――え?」


 目を見開いた。細い喉がごくんと蠢いて、彼女が金魚を丸呑みしたことがわかった。

 肌が粟立つ。動物殺しは凶悪事件につながると漫画で言ってたじゃないか、生き物の命を平気で踏みにじる奴が何をしてくるかなんてわからない。一体何をしてるんだ? なんとかしてあいつを止めないと。

 廊下を見渡すと、掲示物をかけるための一メートルほどのポールがすぐそばに立てかけてあった。きららに気づかれないようにポールをひったくり、震えながら教室の扉を開けた。

 彼女はまだ水に手を浸して遊んでいるようだ。ポールを携えて立ちすくむ椎名を、きららは死んだ魚の目で眺めるのみだった。


「おい、きらら」


 乾ききった口を開くと掠れた声が出る。


「な、なにやってんだよ、お前」

「なにって、見ての通りだけど。魚を食べてました」


 肩をすくめてあまりに平然と返された。


「意味が分からないって顔してるね」

「分かるわけねえよ。分かりたくもない」


 きららはふうと息をついた。


「ところで椎名は何しに教室帰って来たの? まさか忘れ物を取りに? 忘れ物って――これかな?」


 きららがポケットから取り出した何かに、瞳が吸い寄せられた。黒地に少年漫画のキャラクターのステッカーが貼ってある。それは椎名の財布だった。


「なんでお前がそんなの持って……」

「『落ちてたから拾った』んだよ。財布そのものはノーブランド商品、普段使い用かな? このステッカーは『フランダース』って漫画二十一巻の初版ふろく。好きなんだね」


 こてんと首を傾げて、興味深そうな口調で聞かれた。確かに漫画についてきたやつだけど、そんなの意識したこと無かった。それから彼女は勝手に財布を開いて、中から学生証を抜いて読み上げる。


「県立檜山高校普通科、椎名八房、七月六日生まれ……へえ、誕生日もうすぐじゃん。誕生日ケーキ作ってあげようか」


 しびれを切らして椎名は切り出した。


「もういいだろ、返してくれ」

「あ、怒った。怒っても顔はかわいいんだねぇ。質問に答えるなら返したげる~」


 きららは財布を天井に向かって投げ、空中で一回転させて受け止めた。


「ところで椎名、知ってる? お前が安西をぶったんじゃないかっていう噂が流れてるんだよね。同じ剣道部で、実力もあるのにポジションを奪われてしまったから」


 こいつまでそんなことを。


「俺はやってな――!」

「でもそれなら、なんで椎名が犯人だと疑われてるんだろうね?」


 きららが遮る。彼女はそのまま学生証をパラパラ弄んでいた。追い打ちをかけるように、


「一般的に、同級生が怪我したからってすぐクラスメイトの犯行を疑ったりしない。火のないところに煙は立たないともいうよね。君が疑われるきっかけがあるはずだ」

「……あったとしても、お前には言いたくない!」

「いいのかな、そんな事言って。今困ってるのは君のほうでしょ。どうせなら、自分の口から説明したほうが楽だと思わない?」


 それもそうだと唇を噛み締めた。妙な噂が流れているんだから、黙っていてもどうしようもないだろう。

 持っていたポールをそばの壁に立てかける。ことんと乾いた音がした。引き攣った筋肉を無理やり歪めながら、低い声で切り出した。


「……この前、『中学時代にいじめに気づけなかった』って話したろ。その事実に尾ひれがついて、『俺はいじめっ子の一員で、今度は安西に暴力を振るった』って思われてる」


 檜山高校には、椎名と同じ中学から進学してきた子も何人かいる。そこを発端に噂が広まったのかもしれない。

 きららはなにも口を挟まなかった。彼女のことだ、真剣な雰囲気を汲んだというよりは『目の前の男に関する情報収集に集中したい』という塩梅だろうが、いっそそのほうが感傷的な雰囲気を打ち消してくれてありがたい。


「……でもさ、犯人扱いされても仕方ないんだよ」


 自嘲が漏れる。


「『完全に蚊帳の外だった』『全然気づいてなかった』なんて言っても、それが真実かどうかわかるのは俺だけなんだ。俺はそばで見てることしかできなかった。不登校になった側からしたら、黙って見過ごしてた傍観者で、同罪の意気地なしだ」


 今まで誰にも言わなかったけれど、ずっと心の中で思っていたことだった。口に出したらもう止まらない。身体の奥底から自分への怒りが濁流のように込み上げてきた。

 ――いつも傍にいたはずなのに、どうして気づいてやれなかったんだろう。あいつがいじめられていたなんて知らなかった。相談するほど頼れる友達じゃなかったんだろうか。俺がもっと強かったら守れたのだろうか。もっと一緒に戦いたかったのに。

 転校直後のきららに目をかけていたのだって、中学時代の同級生を無意識に投影していたからだろう。それは正義感の賜物というよりは、もう同じような後悔をしたくないというエゴだったのかもしれない。

 中学時代の一件以来、なんのために生きているのかわからなくなってしまった。なぜ生きてるのかわからない。どんなに嬉しいことや楽しいことがあっても罪悪感と後悔がつきまとう。

 友人を裏切り見捨てた癖に、自分だけのうのうと夢を追いかけたり幸福な人生を受け取ったり、喜んだり楽しんだりしていいわけがない。そんな心を押さえ込んで、せめて道化役として振る舞うことしかできなくなっていた。


「あれから、生きてるって実感が沸かない。ずっと世界が鈍色に見える。こんなこと言ってる俺より、あいつの方がずっと苦しかったはずなのに……」


 椎名は無言で拳を作った。沈黙を取り繕うように場違いな乾いた笑いを貼り付けた。

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