2章

俺を疑ってるのか

 その翌日。

 空は曇天だった。運動部の朝練はとっくに終わっている時間帯、通学路には制服姿の生徒たちが坂をのぼっている。

チャイムが鳴る寸前になって正門を抜け、椎名はなんとか教室に滑り込んだ。校門前の長い坂を駆け上って来たせいで髪が乱れているが、鏡とにらめっこして直す余裕はない。汗で張り付いた前髪を指先で払って、そこで椎名は違和感に気づいた。


「おはよ……う?」


 椎名が扉を開けた瞬間、急に教室が静まり返った。いつもあいさつしてくるクラスメイトも、どこかよそよそしい気がする。

 教室の入り口付近に座る紺野は、青ざめた顔で携帯の画面を覗き込んでいた。

 檜山ひやま高校の校則はゆるい。授業中以外の携帯使用は、電話番号を書いた届け出を担任に出せば許可されているため、別段珍しい光景ではない。

 だが彼の様子は、授業前にニュースやSNSをチェックするといった状態ではないように思えた。それが気がかりで椎名は声を掛けてみる。


「紺野、どうかしたのか?」

「……どうもこうもねぇーよ」


 紺野は苛立った様子で椎名を一蹴した。


「昨日の放課後、体育倉庫で何があったんだ?」


 椎名は眉を顰める。意味が分からずとっさに聞き返す。


「えっ? 待ってくれ、何の話だ?」

「とぼけてんじゃねぇーよ。じゃあ、なんで安西があんなとこで倒れてた?」

「俺は何も知らない」


 正直に答えたつもりだった。

 昨日の放課後、椎名は体育倉庫で負傷し昏倒する安西蒼汰を発見した。出血しているようだったので急いで部室に戻り、顧問に状況を伝えると、保健教諭と担任の赤坂がやってきた。安西はそのまま病院に運ばれ、けがを負って意識不明の重体と聞いた。

 赤坂の狼狽えぶりはすさまじかった。何しろ教え子が昏倒していたのだから当たり前だろう。事件性があるかもしれないから念のため、と言って、金田かなだと名乗る刑事に発見時の詳しい状況を聞かれたが、体育倉庫で倒れていたとしか答えようがない。結果、剣道部は活動停止になってしまった。

 ――だが、そもそもどうして紺野は安西が打たれたことを知っているのだろう? まだ事件か事故か不明なので、いつどこで誰が負傷したのか、報道もされていないはずだ。


「俺を疑ってるのか?」

「じゃあさ八房、これ何なん」


 困惑する椎名を前に、彼は携帯の画面を突き出した。短文チャットアプリの個別メッセージ画面が表示されている。

『椎名八房が安西蒼汰そうたを殴ッてた(;_;)(;_;)』


 絵文字と顔文字で彩られたふざけたメッセージの下には、ぼやけた画像が添付されている。夕暮れに包まれて、椎名が体育倉庫に入ろうとしている場面だ。

 昨日の隠し撮りだ。ひゅっと喉が鳴った。


「な……なんだよ、これ⁉」

「檜山高校二年六組の生徒のSNSアカウントにいっぱい送り付けられてんだよ。安西を殴ったのはお前なんだろ? 剣道部でレギュラー張ってたのに、ポジションを奪われたから」


 相手はこう続けた。


「同中の奴にも聞いたけど、お前中学の時に剣道部でいじめをしてたんだってな。その相手は結局学校に来なくなった」


 紺野は苛立ちを露わにして、


「今もまた、安西相手に――」

「……そんなわけねぇだろ!」


 思わず彼の肩を強く掴んでしまった。椎名は逞しい体つきをしているからちょっと凄めば大抵の場所でははばをきかせられる。傍観していた女子がきゃあと悲鳴を上げた。

 喉が渇いて仕方ない。無実の罪で裁判にかけられてるみたいだ。潔白を示すためにちゃんと説明しないといけないのに、言葉が出てこない。

 まるで椎名が犯人であるかのように決めつけられている。紺野の口ぶりから察するに、安西と椎名の間に何かトラブルがあったと考えているらしい。だが安西とは仲良くしていたしいじめなどしていない。

 剣道部の話にしたってたかがポジションが変わったくらいで友達を暴行するわけがないし、まず椎名が赤点取ったから部活停止になっただけだし……。

 石のような沈黙が訪れた。隣のクラスで朝礼が始まるのが聞こえた。

 気まずい空気を断ち切るようにチャイムが鳴る。そのタイミングでちょうど赤坂が入ってきて、入り口で立ったままの椎名達を見やった。


「はーい。皆さん、席に座ってください。今日は湿気が強いですねえ」


 紺野は苦々しげに顔を歪めて、自分の席に戻っていく。椎名もまた暗澹たる思いを抱えながら、教室の一番隅の席に鞄を置いた。隣の転校生は欠席らしい。

 沢山の連絡事項に混ざって、赤坂は「昨日体育倉庫で安西が怪我をして入院したので、何か知っている人がいれば教えて欲しい」と伝えた。簡潔すぎるほどだった。

 その話を聞いて皆がどんな顔をしているのか、教室の最後方からではわからない。胸の中に自己嫌悪が湧き上がってくる。

結局その日はずっと気まずいままだった。





 帰宅途中、学校に財布を忘れたことに気づいて引き返した。

おそらく机に置いたままなのだろうが、今日は学食にも購買にも行っていないのになぜだろう。安西を殴った犯人と言う疑いをかけられ、財布を学校に忘れる。なんなんだ今日は。散々だ。


 無人の廊下。校庭では野球部や陸上部の喧騒が、上階の音楽室からは吹奏楽部がチューニングしている音がそれぞれ聞こえていた。

 窓からのぞく空は血を溶かしたような禍々しい赤色だった。雨の前、台風が接近する前、空気中に水蒸気が多い日は夕焼けの色が濃くなるという。ということは、明日は雨なのだろうか。

 二年六組の教室は、一階の下駄箱から入ってすぐのところにある。どうせ誰もいないからと乱雑に引き戸に手をかけたが、その瞬間、扉についた窓から黒い人影が見えた。


 毒々しい赤に染められた教室の中。セーラー服を着た少女が、黒髪を靡かせながらロッカーの上に座っている。逆光の中で目を凝らしてみると、その姿は今日欠席していたはずのきららだとわかった。壁際に置かれた水槽の中に手を突っ込んで戯れている。彼女の背中越しに餌やり禁止と描かれたポスターが見えた。委員長がわざわざ手書きで描いたものだ。

 いったい何をしてるんだろう。息をひそめて観察していると、きららは水槽の中に肘まで手を突っ込み金魚の一匹を手でつかんですくい上げた。掌の上で金魚がビチビチとせわしなく跳ねている。きららはその姿をまんじりともせず見つめていた。


 そして次の瞬間、きららは金魚を食べた。

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