1章

春嵐

 窓ガラスにはいつもの自分が映っている。ブレザーを着た普通の男子高校生だ。面長で口が大きくて、硬い髪質でよく跳ねる前髪。眼頭に切れ込みの入ったつり目がちの瞳でこっちを見つめ返している。首元からいかつい隆線が伸びて、がっしりとした二の腕に繋がっている。

 時期は五月。この教室は一階なので、光の差し込む中庭がよく見える。

 ぼんやり外を眺めていると、前の席に座っていた男子生徒がくるっと振り向いた。同じ剣道部の安西。今日はいつにも増して落ち着かない様子で、眼鏡をいじくり回している。


「おっはよ~う椎名八房くん! 中間テスト最終日でんな。ちゃんと勉強してきたか?」


 椎名はきりっと笑う。


「全然やってない! でも何とかなるだろ!」

「なるわけないだろ! 何言ってんだ!」


 安西あんざいは眼鏡を人差し指で押し上げ溜息をついた。


「オマエ、今度赤点とったら多分春大会出して貰えなくなるから絶対頑張れよ? 大将不在で出場とか勝ち目ねぇーから。俺ら剣道部の中四国大会出場は、やっつん、お前にかかっているっ……!」

「おー、神頼みしといてくれ。眼鏡教のご利益とかあるだろ」

「なんだよ眼鏡教って」


 安西に言われ、適当に笑い飛ばす。すると安西は祈るように手を組んでお願いお願いと喚き出した。それからぱっと表情を明るくして、


「やっつん、そういえば赤坂先生から聞いちゃったんだけどさ、今日転校生が来るらしいぜ! 何でもすごい美人だって!」


 言われて、椎名は真横に視線を滑らせた。そういえば、教室の最後方列――椎名の隣に、机と椅子が一組用意されている。

 安西は異様に情報通なので、これは期待してしまっても良さそうだ。

 やがて予鈴が鳴った。二人がふざけた会話を交わしていると、若い女性が教室に入ってきた。二年六組の担任教師、赤坂(あかさか)だ。ボブヘアに花柄のワンピースをまとった小柄な姿をしている。


「おはようございます。今日は中間テスト最終日ですね」


 赤坂はいつも通り、自信なさげな笑顔を浮かべている。提出物や連絡事項を伝え終えてから、緊張をはらんだ瞳でざわめく生徒たちをながめた。


「今日はなんと大阪から転校生が来ます」


 その言葉で、安西が振り返り、こっちに目配せして笑う。教室がにわかに色めきたった。しかし赤坂は咳払いで賑やかな生徒たちを諫める。


「ですが、ちょっと遅刻してるみたいなので……先に中間テストを始めますね。荷物を廊下に出してください」


 安西がブーイングしはじめた。お調子者もいいとこだ。

 生徒たちは、廊下に置かれたロッカーの上に鞄を乗せ、中間テスト最終日の追い込みを始めた。

 椎名も手慰みに分厚い参考書をめくるが、本文に印刷された二項定理の解説には目もくれない。ページの隅に描かれたパラパラ漫画の棒人形が何度も膝蹴りをかました。


 やがてチャイムとともに中間テストが始まった。静かな教室に紙をめくる音が響く。解答用紙の名前欄に、角張った文字で『椎名八房』と名前を記入。太い眉を詰めてしばらく問題文とにらめっこして、腕組みしたり鉛筆を転がしたりしていたものの、はたと鉛筆を止める。

 完全にお手上げだった。全く分からなさすぎてもはや笑うしかない。脱力して筋肉質な身体を背もたれにあずける。

 テストを放り出して問題用紙の隅に落書きをしていると、巡回に来た試験監督がコツコツと机を叩いてきた。顔を上げると、赤坂がボブヘアを揺らしてくすくすと苦笑している。椎名もへらっと微笑み返した。

 椎名は剣道で内申点を稼いで入学したので、勉強には全くついていけず、校内模試ではいつも最底辺をうろついている。

 残りあと一時間。もういっそ寝てしまおうかと考えて、それから窓の外に目をやった。


 椎名八房は自分の席を気に入っていた。二年六組の窓際の一番奥、まるで漫画や小説の主人公の位置。何かに導かれるように窓の外に目をやって『現実世界から離れて思索の世界に飛ぶ』行為ができるからだ。

 しかし、その『行動』を真似たところで、窓の向こうに広がるのは普通の中庭であり、ガラスに映るのは退屈な自分自身にすぎないのだが。

 子供の頃、小説や少年漫画に出てくる主人公に憧れていた。その次はスポーツ選手。けれどいまとなっては勉強にも部活にもやる気が出ないし、将来の夢もない。世界が退屈な鈍色に見える。だから白紙の答案やテスト中の教室なんかより、窓の外を見ていたかった。

 教室に面した中庭には大きな樫の木が生い茂り、五月の柔らかな風にそよそよと葉をなびかせている。池の水面がきらきらと光りながら波打つ。衣替えが待ち遠しくなるほどの日差しだ。そんなのどかな様子を窓越しに眺めていた。春のさざめきを聞いていた。

 しかし次の瞬間、椎名は思わず目を見開いた。


 中庭を横切る渡り廊下の二階。逆光のなかに一人の少女が立っていた。

 この高校の女子制服はジャンパースカートだが、彼女はなぜかセーラー服に身を包んでいる。癖のないロングヘア、セーラー服とスカート、ストッキングのすべてが闇に溶けるような黒色だ。まるで白昼に現れた幽霊のようだった。

 少女は身をかがめて上履きを丁寧に脱いで、手すりに立つ。深呼吸しながら中庭の溜め池を見下ろしていた。どう見てもまともな光景ではない。

 ふと頭をよぎった――もしかして自殺? 

 そう思ったら、考えるより先に体が動いていた。助けてあげなくちゃ! 椅子が床を擦る音が響いた。クラスメイトと赤坂が困惑の声をあげる。


「うお、八房⁉」

「八房くん! どうしたの?」


 試験中にも関わらず立ち上がり、クラスメイトの視線が集まるのも気にせず、教室後方のガラス戸のカギを開けて外へ出た。

 ドアを開けた瞬間、湿気をはらんだ生ぬるい風が頬を打つ。渡り廊下に立つ少女へ向かって声を張り上げた。


「おい! お前、そんなところで何してんだよ⁉」


 そこで少女と目が合った。一筋の光も入らない、漆黒の瞳だ。彼女は意表をつかれつかれた顔でこちらを眺めている。


「死んじゃダメだー! 何があったのか知らねぇけど、生きてれば絶対、面白いことがあるはずだから! だから飛び降りなんかやめろ!」


 赤坂も事態の異常さに感づいたらしく庭に出てきた。隣のクラスからも教師がやってきて、おずおずとこちらを窺っている。

 数秒の間、少女はこちらを見つめていた。それからふっと口元を歪めて笑った。

 あいつが危ない、と思ったのもつかの間。少女は空に一歩を踏み出し、渡り廊下のへりから飛び降りた。


「ウワーッ⁉」


 椎名は絶叫する。彼の眼前でセーラー服に包まれた肉体が空へひらめき、次の瞬間――水しぶきとともに池へと着水した。

 この池はそう深くはない。けれど、子どもが風呂の水でも溺れるように、はるか階上から落ちた人間が無事で済むかはわからない。何かあってからじゃ遅い!

 椎名は躊躇なくジャケットを脱ぎ捨てた。赤坂がハッとした顔で椎名を見やる。


「椎名くん、まさか池に入るつもりなの⁉ 危ないわよ!」

「平気です! 俺頑丈なんで!」


 赤坂の返答を待たず、腕まくりするやいなや池に飛び込んだ。次の瞬間、生臭い水が鼻や耳に一気に流れ込んできた。全身からアドレナリンが噴き出して目がちかちかする。

 少女は池の奥底でふわふわと浮いていた。長い髪が広がって、乱反射する木漏れ日に照らされている。まるで溺死体のようだった。水を蹴ってその腕にしがみつき、後ろから羽交い絞めにする。まだ五月だからか、きんと冷えた水の中で彼女の肉体だけがあたたかかった。そのまま立ち泳ぎで引っ張り上げ、水面に浮上する。


「うっ――ぷはぁ!」


 椎名は大きく息継ぎをした。ここの水はとても臭い。池があんまり冷たかったのでくしゃみをしてしまった。

 セーラー服の彼女といえば、能面面のまま口をすぼめて、ぴゅっと水を噴き出している。赤坂はその少女を見つめてつぶやいた。


「あなた……きららさん」

「はい」


 きららと呼ばれた少女は瞳だけ動かして赤坂を見た。彼女はびしゃびしゃと音を立てながら、水から這い出す。椎名もともに陸に上がった。

 女子としては標準の背丈。濡れた髪と服が体に密着し、少女のしなやかな肉体と猫背を強調している。顔立ちそのものは整っているが、『長い黒髪・黒セーラー服・黒ストッキング』という極端に記号的なモチーフに圧倒されて、すれ違っても二秒と覚えていられないだろう。


「……担任の赤坂です。怪我はない?」


 少女は顔を上げ、周囲のオーディエンスを気怠げに睥睨する。切れ長の瞳は妙に据わっていて、無頼漢のような近づきがたさがあった。それから彼女は、何も言わずにスタスタ教室の中に入っていった。


「って、無視かよ?」


 先ほど開けたガラス戸の前まで彼女を追いかける。

 突然の闖入者のせいで、二年六組の教室は今や悄然としていた。もはや試験どころではない。彼女は濡れたセーラー服もそのままにチョークを取って、まっさらな黒板に名前を書いた――素襖きらら。水を吸った袖から汚水がびちゃびちゃと滴り落ち、教壇を濡らした。

 それから彼女はクラスメイトに向き直った。さも普通に、涼やかで楽しそうな声色でこういった。


「初めまして。徳島県から転校してきたきららです」


 固まった生徒たちを前に、きららは口だけでにっと笑って手を振る。スカートの裾からぽたぽた雫が落ちてきている。

 転校生の顔をこわごわと覗き込んだ。なんで飛び降りた。大阪じゃなくて徳島? 『きらら』なんて輝かしい名前なのに全身真っ黒なのがアンバランスだ。気になることは山のようにあるが、長いまつ毛に彩られた瞳からはどんな感情もうかがい知れなかった。


「ぼくの本業は『探偵』さ。みんな、楽しくやろうね! よろしく~」


 彼女の姿を呆然と見つめながら、椎名はふと連想した。

 ――春の終わりとともにやってきて、桜の花を蹴散らしていく強烈な嵐。

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