第17話 作戦決行

 そうして訪れた翌日。

 大きな窓から見える空は、灰色の雲に覆われてしまっていた。

 アルマとジュネはそんな窓の側に立ちながら、一つの扉を凝視している。

 いつも通り眠たげな目をしているジュネの横で、アルマが疲れたように大きく伸びをした。


「ふわああ……ティルゼレアさん、全然出てきませんね」

「そうですね……このままでは、『ティルゼレアさんを暴いちゃうぞ! 大作戦!』が一向に進みません」


 新しくなった作戦名を淡々と述べるジュネに、アルマはがっくりと肩を落とす。


「そうなんですよねー。今のところわかったことと言えば、ティルゼレアさんの部屋の扉の下辺りに、ドーナツの形に似た小さな傷があることくらいですもん」

「チョコ掛け生クリームインドーナツ、食べたくなってきましたね……」


 二人は、少しの間ドーナツに思いをせる。

 それからジュネが、一つの提案を口にした。


「そうしたら、アルマ様……この部屋に入ってみるのはいかがでしょうか?」

「えええっ! でもわたし、ティルゼレアさんから余り話し掛けないでほしいって言われていますよ?」

「でしたら、魔法を使えばいいのです……」


 うっすらと笑うジュネに、アルマは「なるほど、魔法ですか!」と相槌あいづちを打つ。

 ジュネは少し考える素振りを見せてから、とある魔法を紡いだ。


「〈けゆき枯れる雪のように――透明の魔〉」


 その言葉に呼応するかのように、アルマとジュネの姿は段々と薄くなっていく。アルマは衝撃を受けたように、手足をばたばたと動かした。


「えっ……えええ、ええ!?」

「落ち着いてください、アルマ様……これは透明の魔法です。ただ視認できなくなっているだけですよ」

「な、なんだ、よかったですよー! かなりどきどきしましたよー、わたし!」

「驚かせてしまったようで申し訳ありません……ですがこの魔法を使えば、ティルゼレア様の日常をこっそり把握はあくできるのです」

「確かにです! なんか倫理的によくない気もしますが、細かいことを言ってはいられませんよー!」

「そうですね……それでは、早速お邪魔しましょう」


 二人は、透明のまま頷き合う。

 代表するように、ジュネがティルゼレアの部屋の扉をそっと開いた。

 ジュネ、アルマの順に入室し、アルマは音を立てないよう丁寧ていねいに扉を閉める。そうして彼女は、広がっている部屋の光景を見つめた。


 壁際に備え付けられている幾つもの大きな本棚に入った、数多あまたの分厚い本が彼女の目に飛び込んでくる。背表紙は擦り切れているものが多く、何度も読まれたことをひしひしと感じさせる。それ以外の家具は最低限しか置かれておらず、肝心のティルゼレアは、アルマとジュネに背を向けるようにして机に向かっていた。


(ティルゼレアさん、何をしているんでしょう……?)


 疑問に思ったアルマは、僅かにへこんでいる絨毯じゅうたんを見てジュネの位置を確認してから、そろそろとティルゼレアに近付いていく。

 ティルゼレアの隣まで到達したアルマは、そっと机を覗いた。そこに広げられていたのは、三冊の開かれた本と、彼が筆記具を滑らせている一冊のノートだった。本の字がかなり小さいので、見ただけでアルマはくらりとする。一体何が書いてあるんでしょうか――そう考えながら、彼女は懸命けんめいに文字を追った。そうして、一つの事実に気付く。


(ああ、これは……わたしたちの国の歴史を、記した本だ)


 そこには、アルマの記憶にある歴史的な出来事が詳細につづられていた。それは雪桜の民と魔族が争いを繰り返していた頃の、とても悲しくて痛い過去だった。見ているだけで、アルマの胸はぎゅっと締め付けられたようになる。


 ふとアルマは、ティルゼレアの横顔を見た。

 藍色の髪の隙間すきまから覗く、どうしようもないほど美しい真紅の瞳。そんな目が孕んでいる感情はどこまでも真剣で、それでいて……苦しそうで。ようやく、アルマは知る。


(そっか……この人は、悲しいものから目を背けようとせず、深く学ぼうとしているんですね)


 アルマは思う。

 雪桜の民を敵対視するティルゼレアは優しくない人なのではないかと、心の片隅でどこか疑っていた。


 けれど本当は――優しすぎるが故に、雪桜の民を受け入れられないのではないかと。


 アルマの両親はアルマに歴史を教えるとき、雪桜の民への忖度そんたくをしようとはしなかった。先にファルザシスに住んでいた魔族から、土地や命を軽率に奪った雪桜の民の残酷さを、余す所なくアルマへ伝えた。たとえそれがはるか過去のことだとしても、間違えたという事実は簡単には消え去らない。アルマはぎゅっと唇を噛む。


(だとすれば、わたしはこの人の心を、どうやって溶かせばいいんでしょうか……?)


 不安になりかけたアルマは、ふと昨日出会ったユキノの言葉を思い出す。


 ――アルマは、その人が何を好きで何を嫌いか――そういうことが全然わかってないから、何をあげるかも決まらないんじゃないの?


 アルマはひとり頷いて、右手をぎゅっと握りしめた。


(弱気になったらだめです、わたし……だってまだ、ティルゼレアさんの大切なものすら知らないじゃないですか)


 それを知ろうと決意しながら、アルマはティルゼレアの隣に立ち続ける。


 ――そうして、一時間ほどが過ぎた頃。


 ティルゼレアは、休みなく動かしていた筆記具をノートの上に置くと、大きく伸びをする。それから、椅子を引いて席を立った。アルマは目を見張る。


(休憩でどこかに行こうとしてる……? いやはや、追いかけなくてはです!)


 足音を立てないようにしながら、アルマはティルゼレアの背中を追う。

 しかし、ティルゼレアは部屋を出るのではなく――一つの本棚へと近付いた。

 新しい本を取るんでしょうか、とアルマは思う。しかし、ティルゼレアはその本棚の前から動こうとしない。アルマは彼が何をしているのかを見ようと、右隣へと回り込んだ。


 ティルゼレアの真紅の瞳の先にあるのは、一つの写真立てだった。


 アルマはその写真を覗く。そこには数多の白い花々が咲き誇る花畑に、今よりもずっと若いティルゼレア、フィティリナ、ミスフィーズと、一人の男性が写っていた。その男性は柔和な微笑みをたたえており、ティルゼレアと同じ藍色の髪と真紅の瞳を持っている。ティルゼレアの顔立ちにはその男性の面影があって、そうしてアルマは彼がティルゼレアの父親だということに気付く。


 ――わたくしの夫は、八年前に病気で亡くなっているんだ。


 ミスフィーズの言葉を思い出し、アルマの心を悲しい気持ちが浸していく。ティルゼレアの表情は、遠い日々を懐かしんでいるような、とても切なげなものだった。


(ああ、きっと、この人の「大切」は……)


 アルマがそう考えていた瞬間、ティルゼレアは息を吐くと歩き出す。警戒を怠っていたアルマは、自身の腕を彼にぶつけてしまった。

 しまった、とアルマは思う。ティルゼレアは瞬きを繰り返してから、透明なアルマがいる辺りを怪訝そうに見つめ始めた。


(ひゃあー、完全に油断していました! まずいですよー、ピンチですよー!)


 だらだらと汗をかきながら、アルマはこの場から逃げ出す算段をつけようとする。

 そのとき、だった。

 こんこん、と扉をノックする音が響く。ティルゼレアははっとした表情になって、


「入って構わない!」


 と大きな声を出した。


 部屋の扉が開き、現れたのは――ジュネだった。

 アルマは、目を見張る。


(あっ、あれれれれ!? ジュネくんも透明になっていたはずでは!? ……ま、まさか、わたしのミスを察した瞬間に部屋の外に出てリカバリーを!? 有能ですよー!)


 アルマは感動しながら、ぺこぺことジュネに向けて頭を下げた。

 ティルゼレアが、不思議そうに首を傾げる。


「……ジュネか。俺に何か用事があるのか?」

「はい、そうなのです……少し、ティルゼレア様にお話ししたいことがありまして。よければ今、お時間よろしいでしょうか?」

「……構わないが」


 眠たげな目で尋ねるジュネに、ティルゼレアは首肯しゅこうを返した。


「ありがとうございます……では、話したいことを頭の中で整理するので、少しお時間をいただければ。それと、二人だけで話したいので、ここでお話しできればと思います」


 二人だけで話したいという言葉をジュネがやや強く言ったことに、アルマは気付く。

 少しの時間を設けたことも併せて考えれば、これはアルマに向けて放たれたメッセージだろう。それを悟った彼女は、ゆっくりと歩き出す。ティルゼレアとジュネに触れないように細心の注意を払いながら、開いたままのドアから抜け出した。


 アルマが幾らか部屋から遠ざかったところで、自分の姿が普通に見えるようになる。ジュネが魔法を解いてくれたのだとわかり、アルマは大きく安堵あんどの息をついた。

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