第2話 セレンとの出会い

 なんだ……? 頬をぺちぺちと手で叩かれる。やめろよ兄さん……触るなって。


「おーい、生きてるかーい」


 声が聞こえた。兄さんじゃない、女の人の声だ。

 ……ん? ちょっと待て、そもそも僕の頬を叩けるなんてそんな馬鹿な。

 ゆっくりと目を開けると、最初に飛び込んできたのはつつましい谷間だった。

 あー、谷間っていうのは一般的な丘とか山の間とかそういう意味じゃない。女性の胸と胸の……いや、この話はやめよう。


 とにかくいきなり衝撃的なものが飛び込んできて驚くが、よく見れば人の肌じゃない、もっとペタペタしていて、カエルのような感じだ。

 しかも、服を着ていない。いや、さすがに丸見えってわけじゃないが、胸当てが貝殻なんて絵本でしか見たことがない。


「えっと……誰?」


 顔のつくり自体はだいたい人間と同じだが、それが人ではないとすぐに分かった。

 白目の部分が黒いのだ、こういうとすごく変な感じがするが、そうとしか言いようがない。

 金の瞳に黒い白目、目というより宝石とかそういう風に認識してしまう。


「え、アタシ? アタシはセレン、君は?」

「えっと、クリ……じゃなくて、エスト。ただのエスト」


 俺が名乗ると、セレンはにっこりと笑って俺の手を握った。


「ちょ、だから触っちゃまずいんだって!」


 慌てて振りほどこうとするが、全く解けない。力が強いわけじゃないのに、なんだこの不思議な感覚は。


「なぁに? シャイなの? 人間ってみんなそうだよね」


 そう言って彼女はけらけらと笑う。


「いや……シャイっていうか、君は平気なの?」


 彼女の手を改めて確認する。白くて細い、人間と変わらないような外見だが、やはり質感が違う。

 けど、全く黒く変色していない。俺の毒が回っている様子はないな……。

 毒が全く効かない人も過去にはいたのだが、その人も黒い変色は起きていた。つまり、この子にはそもそも毒が入っていない。


「そういえばここ……どこなの?」


 周囲はごつごつとした岩に囲まれていて、本で見た洞窟に近いかも。右側を見るとすぐに壁だったが、左側の奥は壁じゃない、何やら白くもやもやしている。あれもしかして滝か?

 俺はその岩場の端に寝かされていた。なんだかよくわからない植物の上だ、布団のようなものかな? 結構ふわふわしている。


「ここ? デルボラの滝の内側だよ、水がだばーってしてるとこの、壁側にある穴の中!」


 セレンは真剣な顔で身振り手振りで説明するが、何を表しているのか全く分からない。言葉の説明のほうがよっぽどわかりやすかった。

 不思議な踊りのように見えるそれに俺が笑うと、セレンは安心しきった顔で微笑んできた。穏やかなその表情に、なぜかドキッとする。


「エスト、やっと笑ったね、へへ」

「えっ、いや、ごめん! その、馬鹿にしてるとかそんなんじゃ……」

「分かってるよー……どう、身体は平気? 起きれる?」


 俺はベッド? から上体を起こすと、布団に触れてみた。この植物も不思議だ、普通枯れていない植物は、俺が触ると変色するのに……

 ちらりとセレンを見る、やはり人間ではないみたいだ。手足や顔は同じっぽい、変わっていることは肌の質感と、髪の毛くらいか。セレンの髪は透き通っていて、一本一本が太い束のように見える。

 改めてセレンに向きなおると、彼女は少し恥ずかしそうに身体をよじった。


「その……さすがにまじまじと見られると照れるっていうか……」


 胸当ては貝殻で、下半身はスカートのような覆いで隠している。けれど、全体的な露出度で言えばかなり高い。

不躾な目線を向けていたのにハッとして、慌てて目線をそらした。


「君は……何者? 人間じゃないよね?」

「あぁ、種族の話? そうだねぇ、君たちで言う人魚とかなのかな、私たちはウォーフメイドって言ってる。まぁ、私は混血だから正確には違うけどね」


 そこまで聞いて、俺はハッと思い出す。


「というかそうだ! 俺は滝に落とされたはずなのに……どうしてここに?」


 兄さんとの最後のやり取りを思い出す。苦い思い出になりそうだ……兄さんのバカ。

 しかめっ面をした俺を優しくなでると、セレンは立ち上がった。


「エスト、腹減ってるか? せっかくだからやってみせるよ、ついてきな」


 俺は歩き出したセレンの後を追った、彼女は滝の手前で立ち止まり、くるっと振り向いた。

 近くで見ると本当に滝の内側だ、数メートル先をとんでもない量の水が落ちていく。確か本で読んだ滝の厚みは、一番大きいところで大型船ほどもあったはず。

 滝に俺が見とれていると、セレンは肩をちょいちょいと叩き、いたずらっぽく笑った。


「しっかり見てろよ~……よいしょぉ!」


 彼女は両手で何かを引っ張るような動きをすると、目の前の滝が透明な手に握られたように、こちらに向けて流れてきた。


「ちょ、ばか、うわぁぁぁぁ!」


 流れるとかいうレベルじゃない、目の前でお風呂をひっくり返された子猫みたいな気分だ。


「だいじょーぶだって! 落ち着きなよ、なっ!」


 声に合わせて、セレンはぎゅっと両手で握りつぶすような手ぶりをする。

 すると、水の塊がバシャっと崩れ、中にあった魚や木が床に落ちた。


「なっ? すげぇだろ!」


 セレンはぐっと親指を立て、少年のような笑顔でこちらを見た。ずぶ濡れになったのに、俺は乾いた笑いしか出てこなかった。


「……もしかして、俺がコレで引き揚げられたのって、偶然ってこと?」

「そうなるな!」

「セレンの他にもこういうのやってる人は?」

「いるわきゃねぇだろ」


 セレンは腰に手を当て、快活に笑った。いやいや、笑い事じゃないんですけど。


「ま、なんにせよ、だよ。今は生きてる、それでいいだろ?」


 生きている。そうだ、俺は生きている。孤独に死ぬはずだったのに……。

 ふいに涙がこぼれた。そして止まらない。声を上げることはなかったが、俺はしばらく何も言えず、その場に立ち尽くした。


「なぁエスト、ここに来るヤツはみんな命知らずのバカばっかりだ。自分から死にに行くアホばっかりだ……一丁前に鎧なんか着こんで、命を捨てにいく奴らだ、アタシはそういう奴を何人も見てきた」


 俺の前に立つセレンは、決して振り返らずに語りだした。


「けどな……軽装で、子供で、見るからに弱っちくて、今までで一番死にそうなお前がさ……アタシの手を握ったんだ、それが嬉しくってさ」


 そこまで言い、セレンは振り向いた。そして、俺に右手を差し出す。


「お前さえよければ、ここにいてくれよ。話し相手が欲しかったんだ」


 俺は少し躊躇ったが、すぐにその手を握り返した。


「俺も……ここに居たい。まだ生きていたい」


 そう言うと、セレンは嬉しそうに笑い、左手を胸に当ててもう一度名乗った。


「アタシはセレンだ、よろしくな」

「こちらこそ……よろしく、セレン」


 足元でビチビチと魚が跳ねる。セレンは名乗りながらも、それを逃がさないようにしっかりと踏みつけた。それが面白くて俺が笑い、セレンも笑った。


 笑い声が反響する洞窟で、俺の第二の人生がスタートした。

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