第18話 最後の務め

 何かとてつもなく大きな負の力を帯びたものが、神殿の地下から溢れる気配。

 同時に神殿全体が小刻みに揺れて、純白の壁に無数の亀裂が走った。


「地震か?」


 祭事が行われている大広間の外で、いつも通り扉を守っていた神殿騎士のルーグは咄嗟に近くの柱へ身を寄せた。


 それはあっという間の出来事だった。

 地の底から不気味に鳴り響く音と揺れが激しさを増したかと思うと、壁の亀裂は天井にまで達し、細やかな色彩で描かれた聖人の絵を引き裂いてばらばらと崩れてきたのである。

 しかも信じ難いことに、神殿を支える太い石柱にも亀裂が襲いかかった。

 ルーグは身を寄せた柱の後ろに回った。

 大きな振動と共に、対面の柱が折れて倒れてきたのはその直後だった。


 一体何が起きたというのだ。

 ルーグは慎重に柱と柱の隙間から這い出し、大広間へ続く扉があった場所を見つめた。そこにはかつて扉があったと思われる枠だけを残して壁が崩れている。周囲は神殿の屋根と思しき破片などが山のように積み重なっており、半ばほどで折れた柱のみが残っていた。


 けれどルーグの視界に入ったのは、全てが崩壊し、人影が絶えた漆黒の闇に浮かぶ一人の少年の姿だった。長いセピア色の髪を靡かせた、緋の神官服を纏う少年。

 そして彼から少し離れた場所に、国王や執政官など、祭事の立会人として参加していた者達が倒れていた。

 瓦礫の山の中でひとり立つ少年は、凍り付いたように一片の光も射さない上空を見上げていた。


 ルーグは少年の視線を追って息を飲んだ。

 真っ黒な空に白銀の髪を靡かせた異形がたたずんでいる。

 ルーグは神殿の大広間でリスティス=アーチビショップの後継者に指名された彼女の息子が、実際にアルヴィーズ神を召喚する祭事が行われていたことを思い出した。


 あれが召喚されたアルヴィーズ神だというのか? 

 いや違う。

 あんな禍々しいものが輝けるアルヴィーズなものか。


 ルーグは全身の毛が逆立つようなおぞましさを感じた。

 異形はルーグから遥か離れた上空にいるためその容姿がよく見えないが、憎悪や妬みといった負の感情を特に強く感じた。

 その時、異形は華奢な身体の割りに大きな鈎爪状の手を振り上げ、真っ黒な雷を掌に宿らせると、やおら緋の神官服を纏った少年めがけ放った。


 危ない。

 けれどルーグと少年の間には瓦礫の山が立ちはだかり、彼を漆黒の雷から救おうにも到底間に合わない。

 雷は少年に直撃した……かのように見えた。

 ルーグは自分からさほど離れていない柱の影に、リスティスがいることに気付いた。緋の神官服を纏ったリスティスは、他の者と同じように地に倒れ伏していたが、上半身だけを持ち上げて右手を伸ばし、異形が放った黒き雷からセピアの髪の少年を守っていた。


 漆黒の雷はリスティスの力によって弾け周囲に四散した。

 飛び散った雷は瓦礫にぶつかり、再び濛々と土埃が舞った。同時に白い光が少年を包み込んで、その姿が消え失せた。

 上空に佇む異形がリスティスに気付いて、再び手に黒き雷を灯らせる。

 それを見たルーグは叫んだ。


「リスティス様、お逃げ下さい!」


 だがリスティスは先程の攻防で力を使い果たしたのか、ちらとルーグの方に視線を向けると小さく首を振った。

 上空から押しつぶされるような圧迫感が迫る。

 躊躇う間もなくルーグは瓦礫の影から飛び出した。

 神殿騎士は身命を賭して神官を護るのが使命。

 倒れたリスティスの身体に手を回し、立ち上がった所で、異形が放った黒き雷が二人の頭上に煌めく。

 間一髪、ルーグは直撃を逃れた。だが、落ちた雷は神殿の瓦礫を打ち砕き、リスティスを抱えたルーグごと遥か後方へ吹き飛ばした。



 自分の身に何が起きたのか。

 ルーグは崩れかけた瓦礫の山に背中を半ば埋め、思い出したかのように目を開いた。

 一瞬、気を失っていたらしい。

 瓦礫に埋もれながら、ルーグは腕の中でぐったりしているリスティスに視線を走らせた。


「リ……」


 リスティスの名を呼ぼうとして、ルーグは喉を詰まらせた。

 込み上げてきた塩辛い血の塊を吐き出し、空気を求めて喘ぐ。けれど全然量が足りない。そして胸が激しく痛む。どうやら肋骨が何本か折れて、それらが肺に刺さったようだ。ルーグは血の滲む唇を歪ませた。

 自分にはこの方を護ることができない。そう、悟った。

 失望感に俯くと、腕の中でリスティスが身じろぎした。


「そなた、ルーグじゃありませんか」


 目を覚ましたリスティス自身も顔色はよくない。今にも倒れそうで気力だけで意識を保っている。だがルーグのように大きな外傷はなさそうだ。ルーグは身体を動かそうとして、けれど胸の疼痛と息苦しさに咳き込んだ。


「ごめんなさい。わたくしのために」

「……いいえ」


 リスティス様がご無事なら――。そう言おうと思ったが、胸が痛みルーグは口を開く事ができなかった。

 あの黒き雷をもう一度喰らえば終わりだ。

 その前に、せめてリスティスだけでもこの場から逃す事はできないだろうか。

 そんなことを考えていたルーグは、リスティスが上半身を起こし、ルーグの腰に帯びた剣に手を伸ばすのを見た。


「リスティス、さま?」

「ルーグ。剣を借ります。わたくしにはもう……時間がないのです」


 白い華奢な手がルーグの銀の剣を引き抜いた。


「リ……」


 リスティスはやおら抜き身の剣を逆手に持つと、自らの胸に突き立てた。


「リスティスさまっ! なんてことを!!」


 だが瓦礫に埋もれ身動きできないルーグは、リスティスを見つめる事だけしかできない。

 リスティスは剣を両手で握りしめながら祈っていた。

 胸から溢れる鮮血は量を増し、緋色の神官服に吸い込まれていく。

 ふっと、リスティスの目が開いた。色を失った唇が小さく笑みを浮かべる。


「申し訳、ございません。貴方の眠りを醒ませてしまって。ですが、わたくしの最後の願いを……この命でもって、どうか、お聞き遂げ下さい……エレディーン」


 ルーグはリスティスの肩を抱きながら、目の前に現れたセピア色の長髪を靡かせた青年の姿を見つめた。

 それは現か幻か。

 ぼんやりとした光に包まれたその青年は、穏やかな湖水のように、淡い青にも深い青にも見える眼をしていた。けれどそこには静かな闘志が宿っている。


「リスティス」


 リスティスの呼び出した青年は、彼女に呼び掛けると側に近付き膝をついた。

 その時初めてルーグは、彼の姿が硝子のように透けて見える事に気付いた。


「……申し訳ございません。わたくしにはもう……あれを鎮める力がないのです。わたくしの力は、すべて、息子のリセルに託しました」


 リスティスは残る全ての力を振り絞ってエレディーンに訴えた。


「あの子はまだ、自分が何者であるかを知りません。できれば、何も知らずにいさせたかったのです。けれどついにわたくしから、貴方の血脈に連なることを、教える事ができなかった。ですから、どうかあの子を導き、守って下さい……お願いです」


 エレディーンは黙ったまま、けれど深く頷いた。


「リスティス。貴女の願い、叶えたいと思う。だが一つだけ問題がある。私は『聖なる森』から離れる事ができない。身体をとうに無くした私は、アルヴィーズの力が宿る森を離れたら、現世に留まることができず消えてしまうのだ。いまこうしていられるのは、貴女の命が私を繋ぎ止めているからだ」


 リスティスの白い顔に絶望という名の影が降りた。


「そ、んな……」

「リスティス様」


 ルーグは胸の痛みと息苦しさを忘れ、急に重さを増したリスティスの身体を支えた。けれどリスティスの瞳はすでに閉ざされ、胸を貫いた剣から力の抜けた手が滑り落ちた。


「リスティス、様」


 ルーグは声にならない声で、力尽きたリスティスに呼びかけた。自分が側にいながら、彼女を守れなかった事をただ悔いた。

 勿論、ルーグ自身も重傷を負っている。

 肋骨が何本も折れてそのうちのいくつかが肺に突き刺さっている。

 右手は動くが左手は感覚がない。

 立ち上がる事はおろか、次の呼吸もできるかどうか。

 酸欠と痛みでルーグの視界は急速に暗くなりつつあった。

 リスティスは守れなかったが、もしもこの身体が再び動くのなら、自分が彼女の願いを叶えてやるのに。


 ふと脳裏に、緋色の神官服を纏った少年の姿が浮かんできた。

 リスティス様にあまり似てないな。

 リセルに対する第一印象はそれだけだった。


 けれど同時に、彼が向ける不思議な光彩の瞳には肝が冷えた。こちらの真意を見通すような、まっすぐな目で見つめられると、いかなる偽りも底意も見透かされているようで居心地が悪かったのを覚えている。

 それ故に、神官達がよそよそしい態度で彼に接するのをルーグは何度か見た事がある。

 薄暗くなった闇の中で、ふとルーグは視線を感じた。

 あの少年と同じ視線を感じた。

 目は閉じているはずなのに、青白い微光に包まれた人影をルーグは見た。



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