第19話 永き時の終わり

『私に力を貸して欲しい。神殿騎士よ……』

『私に、か?』


 エレディーンは徐々に薄くなる姿をなんとか保ちながら頷いた。


『私は、あの地の底に眠るアルヴィーズの『半身』を見守ってきた者。そしてリスティスと彼女の息子は、我が血脈に連なる当代の『監視者』だ。身体を失った私に代わり、地上に出たアルヴィーズの『半身』を再び鎮められる唯一の者。だがリスティス亡き今、その役割は彼女の息子に託された。私は自らの命をもって訴えた、リスティスの想いに応えたい』

『それは……』


 それは私だって同じだ。


『私は、何をすればいい?』


 身体が冷えてきた。ルーグに残された時間も僅かだろう。

 その時、何か暖かい気配がルーグの肩に触れた。


『私にあなたの身体を貸して欲しい。その間あなたの身体の時は凍結される。けれど私があなたの身体から離れたら……時は再び動き出す。死を免れるわけではないが、身体を貸してくれたら、私達はリスティスの願いを叶えることができる』


『私達……』


 エレディーンはルーグに向かって頷いた。


『そう。私があなたの身体を借りても、あなたの意識が消えるわけではない。私は普段はあなたの邪魔はしない。必要な時には、私が表に出る事もあるだろうが』

『エレディーン』

『お互い時間がない。返事を聞こう。神殿騎士』


 ルーグは血のこびりついた唇を歪め、仄かに笑ってみせた。


『私の名前はルーグ。この身体で役に立つのなら、ぜひ使って頂きたい。私はそれを最後の務めとして誇りに思う』



 ◆◆◆



「母さん……ルーグ……」


 リセルは物言わぬ騎士の肩から手を離しうなだれた。

 すべての謎が解けた。

 何故、神殿騎士であるルーグが森で単独行動をとっていたのか。

 何度追い払おうとしても自分についてきたのか。


『お前は自分が何者であるのか、それを疑問に思った事はないのか?』

 そう問いかけてきたのも。


 すべてはリスティスの命をかけた願いを叶えるため。そして、リセルにアルヴィーズの『半身』を見守る『監視者』として自覚させるため。


 跪いたエレディーンがルーグの身体に手を伸ばした。金色のやわらかな光が指先から溢れ、それはルーグの身体を優しく包み込むと一層強い光を放って消えた。

 リセルは俯いたまま声を震わせた。


「わたしは何も知らなかった。二人が、そしてエレディーン、あなたがわたしの事を気にかけて下さった事を。そこまで大きな犠牲を払うことがわかっていたなら、わたしはあの時、ルディオールを……」


「リセル。お前にその運命を担わせたのは私だ。だからそのようなことは言うな」


 エレディーンはリセルの肩を自らの胸に引き寄せた。


「本当に申し訳なく思う。でも私は、お前を待っていたのだと思う。私が身体を喪った後もこの地に留まり続けたのは、アルヴィーズが封じた己の『半身』が、時を重ねる事につれて『負』の力を帯び、強大になっていくことに脅威を感じていたからだ。このままその力が膨れ上がれば、それは自らこの地上に出てきただろう。そうすれば、もはや魂だけの私では抑えきれず、かつ、アルヴィーズとの戦いも免れなかった。あの方が創造し愛したこの地も崩壊し、すべてが終わっていた」


 エレディーンはリセルの肩を抱いたまま言葉を続けた。



「お前に会えた事、とても感謝している。これでやっと私も……いくことができる」


 リセルは弾かれたように顔を上げた。


「エレディーン。あなたまで……あなたまで、わたしを置いていくのですか」


 エレディーンは抱擁を解き、静かな湖畔を思わせる瞳を細め呟いた。


「お前はもう自分の足で歩いていける。そして覚悟を決めたはずだ。人とは違う永い時を生きる覚悟を」

「わかっては……います。でも……」


 リセルは精一杯別れの悲しみを堪えて答えたが、目から流れる涙を止める事ができなかった。


「リセル」


 言葉では厳しい事をいいながら、リセルを見つめるエレディーンの瞳はどこか憂いに満ちていた。


「リセル。永い時を生きるのは、辛い事も多いが良い事もある。例えば、私がこの森でお前と出会えたように。お前にも多くの出会いが待っている事だろう。そのひとつひとつを大切にして、胸の中にしまっていくんだ。それがある限り、お前は決してひとりではない」

「エレディーン」


 リセルは自分を包み込んでいた暖かな気配が薄れるのを感じた。

 それは緑眩しい森を渡る風となり、澄み渡った青空へ昇っていった。

 リセルはそれをどこまでも目で追った。

 この森で出会って、常に自分を守ってくれた人。

 彼の永すぎた時はようやく終わりを迎えようとしている。

 自分と出会えた事で。

 リセルは未だ濡れる目元をこすり、ゆっくりと立ち上がった。


「……別れの言葉は言いません。あなたとは、また出会えるような気がするから。勿論、ルーグや母さんにも……。わたしには、幸いな事にそれを待つだけの時がある」 


「エレディーン。いってしまったか」


 リセルは背後に現れた大きな存在に一瞬息を詰めた。頬を撫でる風が地界に現れた創造主に礼を払うように、優しい花の香りを運んできた。聖なる森の木々達も、腰を折り緑の葉を垂れる。


「リセル……いや、当代の『監視者』よ」


 名を呼ばれたリセルは振り返り、その場に片膝をついた。周りを圧倒するほどの存在に満ちた太陽神アルヴィーズには、誰もが思わず頭を垂れ跪いてしまう。

 けれどリセルを見下ろすアルヴィーズの麗しい顔は、曇に隠れた太陽のように輝きが失せていた。


「何故、そのようなお顔をされるのです」


 リセルはうつむいたまま口を開いた。神の顔を直接見たわけではない。

 けれどいつも自信に満ちあふれるアルヴィーズの気が、激しく乱れているのが感じられた。


「妾の事、さぞ恨めしいはずだ。リセル」


 リセルは静かに顔を上げた。神界で一、二を争う美姫としても知られるアルヴィーズの麗しい顔はやはり憂いに沈んでいた。

 唇を噛みしめ、リセルは目を細めた。確かに言いたい事がないわけではない。


「ならば、わたしを『監視者』という役目から解放していただけるのでしょうか。アルヴィーズ」


 太陽神はリセルから目を逸らし、静かに首を振った。


「……それは、できぬ」

「では、そのような顔をされると困ります。わたしも……決心が鈍ってしまいますから」

「リセル」


 リセルは自らの身体に封じ込めたアルヴィーズの『半身』がざわつくのを感じた。

 胸がしめつけられるように痛い。言いたい事があるのは彼女もそうだろう。


「お待ちしています」


 リセルは右手を胸に当て、その痛みをなだめながらアルヴィーズを見上げた。

 一瞬、神の麗しい顔が、暗闇の中で一人泣いていた少女のそれと重なった。


「いつか、迎えに来て下さい。わたしの中にいるかぎり、彼女が『ルディオール』になることはありません。彼女は……エレディーンが愛した『あなた』なのですから」


 リセルはエレディーンと同じ、淡い青にも深い青にも見える瞳を細めうなずいた。

 アルヴィーズはようやく沈んだ顔をほころばせて、リセルにうっすらと微笑してみせた。


「ありがとう、リセル。妾もそなたに会えてよかった」

「アルヴィーズ」


 アルヴィーズは自ら身を屈め、そっとリセルの右手をとった。剣を握り自ら先頭に立って戦う神の手は、意外にも繊細で小さく完璧な形だった。


「困った時はいつでも妾を喚ぶが良い。召喚陣とかいう不便なものはいらぬ。そなたが願えば妾はすぐに参る。それから……」


 アルヴィーズはリセルの手を取ったまま、暫し瞳を閉じて沈黙した。

 リセルは何か大きなものが地響きを立てて閉じる音を聞いた。例えば、地面に割れた亀裂が塞がるような。


「王都に開いた『闇の世界』への穴は閉じておいた。人々もそこに何があったのかは覚えておらぬ。だが妾とて壊れたものを元に戻す事はできぬ。神殿は突如起きた地震によって崩壊したと皆にそう思わせた。妾ができるのはここまでだ」


 リセルは深い感謝の念を込めて頭を垂れた。


「ありがとうございます。アルヴィーズ」

「では妾も戻る。リセル、また会おうぞ」


 アルヴィーズは再び立ち上がり、小さく頷いてみせた。その頭上には丸い日輪が燦々とした光を降り注いでいる。

 その眩い光と同化するように、アルヴィーズの姿は消えていった。

 雲一つない蒼天と聖なる森の緑が、リセルにはただ眩しく見えた。


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