第17話 ルディオール

「どうして……」


 未だぴくりとも動かないルーグの肩を抱きながら、リセルは右手の痺れが全身に広がっていくのを感じた。雪山で遭難したかのように体中が凍えて冷えきっている。指一本動かすのも相当な意志の力を必要とした。


「私の力が、いつまでもアルヴィーズと同等であると思わぬ方がいい。いや、ここにいる分だけ、私の方があの女より遥かに大きな力を地上に及ぼせる」


 いつのまにか近付いてきたリスティスが、リセルの長いセピア色の髪をつかみ上げ、その顔を覗き込んでいた。瞳が真紅であることを除けば、リセルを見つめるのは優しかった母リスティスそのものだ。

 いや、違う。

 リセルは瞬きを繰り返し、その顔が別の女のものへ変わっていくのを見た。


「……ルディオール……」


 闇夜に浮かぶ銀月のように白く輝く髪を揺らし、太陽神の『半身』であった女は、六日前より若々しく、そして圧倒されるような禍々しい気に満ちていた。


「リセル。お前には一つ借りがあったな」


 リセルはルディオールを拒絶するかのように目を閉じた。


「わたしもお前に助けられた。だから借りなどない。しかし、わたしはあの時、禁忌を犯した罰を受け入れ死ぬべきだった」


 リセルの髪を掴むルディオールの手に力が込められた。

 ルディオールはさらに自分の方へリセルの顔を引き寄せた。


「そうくな。お前だけは……私を解放したお前だけは、何の苦しみも感じない死を与えてやるのだから。身体が冷えきって冷たいだろう? 手足の感覚も痺れて何も感じないだろう?」


 リセルは答えなかったが、ルディオールの言う通り、身体は凍え手足の感覚もなくなっているのはわかっていた。


「お前は間もなく死ぬ。だがその命の鼓動をいつ止めるかは、私次第だ」


 リセルはぎりと歯を噛みしめた。

 ルディオールが自分をまだ生かす理由が不意にわかった。

 アルヴィーズだ。

 ルディオールはアルヴィーズをこの地上に喚ぶつもりなのだ。

 そして、リセルに今度はアルヴィーズを封じさせるつもりなのだ。


「私の思考を読んだか」


 小さくルディオールが笑い声を立てた。


「そうだな。お前の考えも読めるぞ。お前はアルヴィーズを喚ぶくらいならこのまま死を選ぶ。けれどお前の『監視者』としての役目は果たされない。エレディーンも草葉の陰で泣いていよう。神格を捨ててこの地に降りた愚か者。常命の身になれば死を免れぬというのに、どうやって私の監視を続けることができるというのだ? エレディーン。あれから幾千幾万の夜がこの地上を訪れた? お前の魂はカケラすらこの世界に残ってはいまい」


 ルディオールはリセルの髪から手を放し空に、向かって高らかに笑い声を上げた。

 支えを失ったリセルの頭は未だ倒れているルーグの肩の上に落ちた。

 リセルは感覚を失った指を懸命に動かして、その肩を握りしめた。

 まだ彼のぬくもりが感じられるようだった。


(すまない、ルーグ)


 リセルはただルーグに詫びた。


(わたしに出会わなければ。この森でわたしに会わなかったら、あんたは死なずに済んだ。許してくれ、ルーグ……)



『馬鹿』


 朧げな意識の中で、はっきりと声が聞こえた。


(ルーグ?)


 身体は冷えきって微動だにしない。それを動かそうとする意志も萎えている。けれどその声を聞いただけで、リセルは再び自分の中に力が湧くのを感じた。


『私はお前に会わなければならなかった。リセル。この森で……いや、お前に会うために、私は待っていたのかもしれない』


(ルーグ?)


『その名は私のものであって私のものに有らず。我が名はエレディーンと呼ばれていた』


 リセルははっと目を見開いた。

 氷よりも冷たいルディオールの手が、リセルの髪を再び掴み引っ張り上げたのだ。


「さあリセル。アルヴィーズを喚ぶのだ!」


 ルディオールはリセルを睨み付けながら、周りを気にするように、白銀の髪を大きく乱しながら紅の瞳を油断なく見回した。


「あの女に救いを求めろ! さもなくば、あの傲慢な女が私にした同じ仕打ちをお前にしてやる。あの闇の中へ……魂の嘆きすら届かぬ地の底へこの私が送ってやる。喚べ! 叫べ! 私から助けて欲しいとあの女に願え!」


『ルディオールを……救ってくれ』


 再びルーグの――いや、エレディーンの声が響いた。

 リセルは誰かが自分の右手を握りしめているのを感じた。

 始めは暖炉の前の炎のように暖かかったそれが急速に熱を帯び、そこから全く感じられなかったアルヴィーズの力が全身に流れ込んできた。まるで灼熱の太陽が落ちてきたみたいに身体が火照って熱くなる。

 それに伴い、ルディオールの冷たい憎しみに満ちた力がリセルの中から消えていった。

 雪が解け春を告げる風が吹き、森の木々が青々とした葉を芽吹かせる光景がふと脳裏に浮かんだ。


「ルディオール。もう……やめないか」


 リセルは右手を伸ばし、自分の髪の毛を掴むルディオールの青白い手首に指を絡ませた。


「リセル、お前……!」


 ルディオールの手首を掴み、リセルはゆっくりと上半身を起こした。その身体は青白く輝くやわらかな微光が縁取っている。

 ルディオールはリセルの顔を見て怯えたように真紅の瞳を見開いた。


「貴様は……! 嫌よ……嫌っ! 私に触れるな。手を放せ!」


 ルディオールは自由な左手を振り上げ、憎悪と孤独の思念に満ちた黒い稲妻の力を収束させた。


「私の力を見くびるな! 私はアルヴィーズの『半身』だ!」

「わたしを信じてくれ。今度はお前を傷つけたりはしない」


 リセルはもう一方の手を伸ばした。即座に凍り付いてしまいそうな冷気を放つルディオールの稲妻を包み込む。それはリセルが触れた途端霧のように四散した。


「嫌っ! 私はあそこへ……あの中には戻りたくない!」


 ルディオールが身体を仰け反らせ絶叫した。

 リセルはその両手を掴みながら、彼女が目にしている同じ光景を見ていた。

 息詰まるような静寂に満ちた、暗黒の霧が立ち込める空間。

 その中で一人、小さな少女が座り込んで泣いていた。

 肩に届くぐらいの真直ぐな金髪に白いゆったりとした衣を纏っている。



『私の何がいけないというの?』

『あの小さな箱庭を、愛することが何故いけないの?』

『あなただって泣いていたじゃない』

『あの箱庭を失う事が何よりもこわくて、悲しくて……』

『その気持ちを捨ててしまうなんて。こんな所に閉じ込めるなんて』

『私を、閉じ込めるなんて』

『私は、なのよ』


「アルヴィーズ」


 リセルは闇の中で泣き続ける少女に呼びかけた。

 少女の肩がぴくりと震えた。金色の髪がさらりと揺れて少女がおずおずと振り返る。

 リセルは彼女に近付き、膝を付くと両手を広げてその小さな肩を抱きしめた。


「わたしの所においで。あなたの怒りや苦しみ……悲しみや寂しさ。封じなければならなかったあなたの心。わたしがすべて受け止める」


『そんなこと、できっこないわ』


 リセルの腕の中で少女の声は震えていた。


「大丈夫。わたしがここに留まった理由はただ一つ」


 リセルはここにはいない、けれど側にいる、もう一つの思いを感じながらつぶやいた。


「あなたを『ひとり』にしないためだ」



 ――エレディーン。

  私の心を封じて。

  戦いに必要のない、私の『弱き心ルディオール』を愛しいこの地に。



 リセルを取り巻く闇の霧が晴れていく。

 色を失っていた『聖なる森』に、明るい陽の光が降り注いでいた。

 リセルは両手に淡い金色の光を抱えていた。まるで磨かれた水晶球のように透明な輝きを放つその光は、かつて『ルディオール』と呼ばれた、アルヴィーズが自分にとって不必要だと思った『心』そのものだった。光は小さな明滅を繰り返しながら、すっと、リセルの胸の中に入って消えた。



「それでいいのか?」


 リセルの背後で、聞き覚えのある懐かしい声がした。

 リセルは小さく息をついて、森を渡る風に靡く髪を押さえながら振り返った。

 そこにはリセルによく似た面差しの青年が立っていた。

 恐らく五才ほど年上だろうか。

 腰まで伸びたセピア色の髪が太陽の光に当って金茶色に輝いている。

 くっきりとした眉の下で、淡い青とも濃い青にもみえる湖水のような瞳がリセルをじっと見つめていた。

 けれどよくみれば彼の姿は薄い。


「これがわたしの選択です。エレディーン」


 リセルの前に立つ青年――いまは魂のみで存在しているかつての『監視者』は、リセルの良く知った者と同じ穏やかな微笑を浮かべていたが、申し訳なさそうに眉間を曇らせた。


「あの者の心を救ってくれた事には大変感謝している。けれど、ルディオールを抱えて生きるお前は、常命の者より遥かに永い時を生きなければならない存在となってしまった」

「ええ」


 リセルは言葉少なげに返事をした。

 かつて神族だったエレディーンがこの地に降りた時のように、神の力を抱えたリセルもまた、普通の人間よりながい時を生きる事になる。

 それは決して幸いな事とはいえない。


「でも、彼女と約束してしまいましたから。わたしがすべてを受け止めると。いつか、アルヴィーズが自ら封じた己の心を再び受け入れて下さる時まで、わたしがあの方の心を守ります」


 リセルは右手を胸に押し当てた。


「一つだけ教えて下さい」


 リセルは目を閉じ、小さく頭を振ってから、足元に倒れている黒髪の神殿騎士の遺体の側に膝をついた。


、ルーグだったんですか?」

「そうだ……でも、正確にはそうではない」

「えっ」

「ルーグと、私が在った」


 エレディーンが静かにリセルの側にやってきた。そして騎士の側に跪いた。

 瞳を伏せ、そっと労るように物言わぬ騎士の黒髪を撫でた。


「ルーグは真の『神殿騎士』だった。彼がいなければ、私とお前の母……リスティスの願いを叶える事はできなかった」

「願い?」

「彼に触れてやってくれ。その思いを知るためにも」


 リセルはルーグの肩に手を置いた。

 誰かの――これはルーグが生きていた時の記憶だ。

 それが一気にリセルの脳裏に流れ込んできた。

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