第8話 夜明け

 これほど必死になって階段を駆け上がったことがあるだろうか。

 リセルは青白い薄闇に覆われた神殿の階段をひたすら昇り続けた。

 

『目がさめた時の朝、神殿で朝日を一番に浴びる場所へ行き、日の出を待つのだ』


 神殿の壁にくり抜かれた小さな丸い明かりとりの窓から、空が白んでくるのが見える。夜明けまでになんとしてでも、朝日を浴びる事ができる場所にたどり着かなければならない。

 アルヴィーズは『目がさめた時の朝』と言っていた。

 だからこの機会を逃したら次はない。


「はぁ……はぁ……くっ!」


 リセルは着せられていたアルディシスの法衣の裾をたくしあげ、両手でそれを持った。さっきから裾を踏んでころびそうになるのだ。こんなに動きにくい服に着替えさせたアルディシスを恨めしく思うが、今はそれどころではない。

 階段を駆け上がったリセルの前には両開きの質素な木の扉があった。

 把手を掴み、奥へ押す。さーっと冷たい風が流れ込んできた。

 早朝の清々しいあの空気だ。自分の生きる世界に帰ってきたような気がする。

 眼下には黒い森の影が広がり、北と西には、白い降雪を戴いた『神の剣』『神の盾』と称される山々が連なっている。そしてリセルの正面には、徐々に明るさを増していく空があった。


 リセルは切れ切れになる息を整えながら、一歩、裸足の足を前に踏み出した。

 ここは小さなバルコニー状になっていて、三十人ぐらいが入れる程の広さがある。

 リセルは一番先端まで歩いていった。

 空は刻一刻と明るさを増していき、山にかかった黒い雲を追い払っていく。

 濃紺のそれが紫となり、やがて橙へと変わっていく。


 リセルはぎゅっと両手を握りしめ、真っ黒な地平線からやがて現れる太陽の姿に畏怖した。

 ここまでやってきたものの、すぐさま回れ右をして、入って来た扉の向こう側へ隠れたくなる。


 アルヴィーズと会った時は魂のみの状態だった。

 だが今は

 果たしてこの呪われし身は焼き尽くされることなく、アルヴィーズの力に耐えることができるのだろうか。

 リセルは身体を震わせ、かき集められるだけかき集めた勇気を持って、足に力を込めた。


 アルヴィーズは言った。

 苦しみはいつか終わる。


 それに今ここで呪いを解かなければ、リセルは二度と日の下を歩く事はできない。ルディオールの呪いはやがてリセルの心まで侵食し、奴の眷属けんぞくに成り果て、日の当たる世界では暮らせなくなる。

 そして今、ルディオールが居る王都はどうなっているのか。


「……くっ」


 リセルは真紅の瞳を見開き、地平線から昇る太陽の最初の光の鋭さに思わず顔を背けた。

 光を直視したせいだろう。焼けた短剣で眼球を突かれたような痛みが広がる。

 顔を手で覆いながら咄嗟に思った。

 太陽の光に包まれたらわたしの身体は焼きつくされて、灰も残らないかもしれない。

 皮膚から伝わる太陽の光の熱は暖かさを通り越して、徐々に熱さを増していく。水平線からは五日ぶりに顔を覗かせた太陽が、完全な姿で昇りつつあった。


 リセルは我が身を抱えるように肩を抱き、燃え盛る業火の中に放り込まれたような熱を感じていた。

 それはリセルの皮膚を焼き、肉を焼き、骨まで達するような熱さだった。

 自分が生きているのか死んでいるのかもわからない。

 ただ、熱い。

 焼きつくされる熱しか感じない。空気まで燃えているようだ。

 すでに眼球は溶けてなくなっているのではないだろうか。

 リセルはどこにも隠れる事ができない強烈な光の中にいた。

 終わるのなら早く終わらせて欲しい。この苦しみを――。

 真っ白な光の中で、何かが動いた。

 誰かがいた。


『ルディオールの呪いは妾が焼き尽くした。よく耐えたな、リセル』


 リセルは答える事ができなかった。

 アルヴィーズの言葉にうなずくことしかできなかった。


『これを――受け取って欲しい』


 リセルはアルヴィーズが自ら身体を支えてくれていることに気がついた。


『この剣には妾の力の一部がこめられている。これでルディオールを地の底に再び還して欲しい』


 リセルは感覚を失った手を上げて、アルヴィーズが手渡した剣を受け取った。ルーグが腰に携えている銀の剣より二倍の長さがある長剣で、それはリセルの右手に触れるや否や、吸い込まれるようにその中へ入って消えた。


『アルヴィーズ』


 眩しい光の中で麗しきアルヴィーズが微笑んだ。


『また会おう。小さな、愛しき者よ』



  ◆◆◆



 太陽神の力が本来のそれに戻っていくのがわかる。

 ルーグは白の式服の下で鳥肌が立つのを感じていた。

 さすが太陽神が直々に降臨するという「神の山」の神殿故か。

 ルーグは自分でも驚く程の早さで、リセルが駆け上がった階段を昇っていた。幾分遅れてアルディシスも来ているようだが、今のルーグに彼女を気遣う心の余裕はなかった。

 ルーグは珍しく息を弾ませながら、神殿の階段を昇りきった。

 目の前の簡素な木の扉を開くため把手を握る。そして奥へと押した。


 外は光に満ちていた。

 生命を育む慈愛と恵に満ちた大いなる光が世界を神々しく照らしていた。

 五日間という長い夜が続いたせいで、ルーグの目は暗闇に慣れきっていた。

 涙目になりながら目蓋を擦り、ようやく太陽の光に目が馴染んで来た時。


「ルーグ!」


 誰かがルーグの名前を呼んだ。

 とても親し気に。

 ルーグはバルコニーの先に誰かが立っている事に気がついた。


 (そうだ。リセルは一体どこに……?)


 だが周囲を見回しても、あの小柄なはねっかえり娘の姿はどこにもない。


「おいルーグ! わたしはここだ」


 ルーグは弾かれたように、前方から駆けてくる人物を見つめた。


「喜んでくれ! ルディオールの呪いはわたしの身体から消えたぞ!」


 それは子供のようにルーグの首筋に抱きついてきた。


「えっ……あっ、その……! お、お前、か!」

「ルーグ? あんた、頭でも打ったのか? 他に誰がここにいるっていうんだ?」

「ちょっとよく顔を見せてくれ」

「はぁ……?」

「いいから、早く!」


 ルーグはとにかく首筋に抱きついているリセルの腕を振り解いた。

 ルディオールの呪いを受けたリセルは十三才ぐらいの小さな少女で、背丈はルーグの腰までしかなかった。


 が、今はルーグの胸の高さの所にリセルの顔がある。

 第一印象は、見違えたといっていい。

 リセルは新緑のマントに同じ色のチュニックと長靴という出立ちで、まるでしなやかな若木のような姿だった。


 三つ編みが解けた長いセピア色の髪が、陽の光を受けて金褐色に輝いている。ルディオールの呪われし紅の瞳は、光の加減で深い青に見えたり淡い水色にも見える神秘的な色へ変貌していた。


 そして何よりも違和感を覚えるのはその顔だ。

 高尚な猫を思わせる雰囲気は変わらないが、くっきりと伸びた眉に意志の強い目。引き締まった口元――どうみてもこれは『小さな少女』ではない。

 どちらかといえば、『少年』という方がしっくりくる……。 


「お……お前、ひょっとして?」


 ルーグはリセルの頬を思わずぺたぺたと叩いた。


「なにをする。いきなり人の頬を叩いたりして」


 リセルがルーグの手を振り払う。

 その腕力は予想していたよりも遥かに強い。

 ルーグはふらりとよろめきながら、バルコニーの欄干に手をついた。

 がっくりと項垂れ、思わずつぶやく。


「アルヴィーズよ……私は今、目の前の現実を受け入れるべきか迷っています」


「リセルちゃん! ルーグさん! 大丈夫ですか?」


 その時、ようやく巫女のアルディシスがバルコニーへ姿を現わした。

 ルーグと同様に全力で階段を駆け上がってきたのか、切り揃えられた金髪は乱れ大きく息を弾ませている。


「リセル……ちゃん?」


 ルーグはちらりと横目でリセルのひきつった顔を見た。

 血の気が失せて目がうつろになっている。

 ルーグはこれで確信を得た。

 受け入れなければならない現実を知った。


「巫女さん! わたしはあの屈辱的な姿から、やっと元の自分の姿に戻ったんだ! それなのに酷いじゃないか! リセル『ちゃん』、だなんて!」

「……あ、あら。まあ!」


 アルディシスはおずおずとリセルのそばに近付くと、恐る恐る顔を覗き込んだ。


「びっくり。あなた、男の子だったの!」


 リセルは真面目な顔で頷いた。


「そうだ。ルディオールの呪いはわたしの姿を子供に変えたばかりか、あろうことに性別まで逆転させた。それに気付いた時、わたしは目の前が真っ暗になった。魔法は使えないし、ルディオールの手下は追いかけてくるし。いっそ死んだ方がましだろうかと、何度もそれを考えた」

「そうか、それでか」


 ルーグは額に手を当てつつリセルの隣に並んだ。


「巫女どの、聞いてくれ。私がリセルを幽鬼から助けた時、彼女……(リセルは無言でルーグの向こうずねを蹴りつけた)……ぐはっ! い、いや、彼は、自分を『お嬢ちゃん』と呼ぶなって、必死で懇願したんだ」

「当然だ。わたしはお嬢ちゃんじゃない! 先月十八才になったから、立派な成人だ」


 ルーグは怒るリセルの肩を右手で押さえた。


「わかった! わかったって! 私が悪かった! あ、そうだ、リセル! 元の姿に戻れてよかったな! 私は目から涙が滝のように流れ落ちる程うれしいぞ!」


 リセルはぎろりとルーグを睨んだ。


「本当にそれはうれし涙なのか?」


 ルーグは大きく何度も頷いた。

 実は向こうずねを蹴られた痛みで涙が出たのだが、それは決して口にはしない。

 妙な所で意地を張るルーグだった。


「苦労して一緒にここまで来たんだから、お前が元の姿に戻れて嬉しいにきまってるだろ! さあ、下に降りて何か食べたらどうだ。ずっと眠りっぱなしだったんだから、ちゃんと食べて力をつけなくては、またルディオールにやられてしまうぞ!」

「お、おい。ルーグ!」


 半ばヤケといった口調でルーグはリセルの腕を掴み、階段の方へ歩いていった。


「巫女どの! 台所を使わせてもらっても構わないだろうか。この『少年』に力のつくものを食べさせてやりたいんだ。勿論、巫女どのも一緒だ」

「あ、はい。どうぞご自由に……」


 アルディシスはどういう表情をすればいいかわからない、といった様子でルーグの顔を見つめていた。


「本当に一体何なのよ。あの人達」



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