第7話 世界のことわり

 誰かに呼ばれた気がして、リセルは目を開けた。

 周囲は白みがかった薄闇に覆われている。


「確か、わたしは神殿の中に入ろうとして……」


 リセルは横向きに倒れていた身体を起こそうと腕に力を込めた。

 が、全身が麻痺したように動く事ができない。


「ちょっと待て。どういうこと? それにここは……どこだ?」


 リセルは焦りながらも、ゆっくりと目の前を流れていく白い薄霧を睨み付けて、自分の置かれている状況を把握しようとした。

 確か自分は「神の山」の神殿にたどり着きその中に入ろうとした。

 リセルはその瞬間を思い出し息を詰めた。

 頭上で轟いた幾千の轟音と青白い稲妻は、鉄槌のようにリセルの頭上に降り注いだ。

 神に許しと助けを祈る間などない。

 その衝撃は今にも身体が引き裂かれてばらばらになってしまうのではと思うほどだった。


「わたしは――生きているのだろうか」


 未だ動かせない身体に戸惑いつつリセルはゆっくりと目を閉じた。

 ここがうつつでないのはわかる。

 世界は幾つもの空間が複雑に重なりあって存在している。

 その空間を自在に行き来できる魔法使いもいるらしいが、リセルはそれを試した事がない。やってみてもいいが、再び自分達の生きる世界に戻れる自信がない。

 どのみちルディオールの呪いを受け魔力を封じられている自分に、ここから脱出する術はない。


「……こんなことに、なるなんてな」


 目を閉じたままリセルは息を吐いた。王都の大神殿で、母リスティスの後継者としての証を示すため、アルヴィーズを召喚しようとした『あの日』が遠く感じる。

 アルヴィーズではなく、かの神が嫌い疎んだ『ルディオール』を出現させ、大神殿が崩落したのはたった三日前の出来事なのに。


 ――どうして『彼奴』を喚んだのだ?


 誰かが頭の中に直に響く声で訊ねてくる。

 リセルは一瞬驚いたが物怖じすることなく反対に訊ねた。


「どうして『あいつ』は出て来た?」


 リセルに訊ねて来た声は、愉快と不愉快が混じったような声色で笑った。


 ――そうだな。確かにそれは、わらわの慢心のせいかもしれぬ。

   あやつは常にこの世に出る隙をうかがっておるから。

   きっとそなたの中に眠る『ふるき血』を利用したのだろうな。

   リセル。


 リセルは閉じていた目を見開いた。

 目の前の白い霧が突如吹き出した風により、散り散りになって消えた。

 同時に前方からきらりと銀の光がものすごい早さで飛んでくる。

 それはみるみる明るさを増し、太陽のように白熱した。


 リセルは咄嗟に顔を背け再び強く目蓋を閉じた。

 ルディオールに与えらえた呪われし瞳は日の光を直視できない。

 目蓋の裏――赤い闇の奥で強烈な輝きを放つものが近付いてくるのがわかる。

 耐えられない。この燃えるような光に包まれたら。

 考えるより先に答えが脳裏に浮かぶ。

 リセルはどうすることもできず、横たわったまま身体を竦ませた。

 同時に光の洪水がその身体の上に降り注いできた。


「あ……れ……?」


 何も感じない。

 予想された熱さも眩しさも痛みも。


「ここは神界と地界の狭間の領域。いわゆる『中立地帯』だ。よってわらわの力も『彼奴きゃつ』のしゅも古の契約によって無効となる」


 威厳に満ちた声がリセルの頭上から響いた。


「あなたはひょっとして……」


 リセルはいつしか目蓋を開き、目の前に立つ金色の光を凝視した。

 恐る恐るその名を口に出す。


「太陽神アルヴィーズ」

「そうだ。妾を『んだ』のはそなただ」


 リセルは驚きに目を見張りながら、光が人の形へと変化していくのを見つめた。

 母リスティスの話では、アルヴィーズが人の前に姿を現わす時は女性の姿をとることが多いと聞いていた。リセルの前に立つ太陽神は、眩い金色の甲冑と白銀の衣を纏った女性の姿で現れた。

 金の麦穂のように輝く長い髪は神々しい光を放ちながら両肩の上にこぼれ、リセルを見下ろす瞳は真昼の晴れ渡った空の色。神は慈愛に満ちた穏やかな表情をしているが、その下には燃え盛る炎のような激情が隠れている。

 だがアルヴィーズはその憤怒ふんぬの表情を白い顔のおもてに隠した。

 そしてあきれたように肩をすくめ金色の髪を震わせた。


「全くそなたは無茶をする。『彼奴』の呪いを受けし身で、妾の神殿に入ろうとするなんて。どうなるかは知っていただろう? 妾がそなたの魂をここに連れて来なかったら、本当に命を落としていたのだぞ!」


 リセルは膝をついたまま太陽神の顔を真っ向から見つめた。


「仕方ありません。わたしにはそうするしか方法がなかったのです。あいつに……『ルディオール』にかけられた呪いから解き放たれるためには、あいつと同等の力をお持ちである、あなたに助けてもらうしかなかった。そうでしょう?」


 アルヴィーズは眉をしかめ、唇を震わせて小さく笑んだ。


「妾の前であやつの『名前』を堂々と口にできるのはそなただけだ。『エレディーンの末裔』よ」

「エレディーン?」


 リセルは聞きなれぬ名前に戸惑いアルヴィーズを見返した。太陽神は黙ったまま蒼眼を周囲にうつろわせたが、気にするなというにように微笑した。


「そなたは己が何者であるのかまだ知らぬのだな。では話さねばなるまい。『ルディオール』が元は妾の『負』の部分であることは知っているな」

「はい」


 アルヴィーズはそっと自らの胸に手を当てた。


「妾は――彼奴を自らの意志で『切り捨て』た。今から遠い昔、神界は戦で乱れ、その影響でそなた達人間が暮らす地界も天変地異が起き、多くの生きとし生けるもの達が死んだのだ。私は自ら育んできた大地や人間をこれ以上失いたくないと思った。そのためには神界の戦を終わらせなくてはならぬ。何事にも迷わず、惑わされない、確固たる強い意志が、妾には必要だったのだ」


 アルヴィーズは金の甲冑を震わせ手を胸から下ろした。


「だから妾は自らの弱い心を――そして迷いを生み出す『ルディオール』の心を地中深く埋め封じた。迷いのなくなった妾は世界のことわりを乱す悪神を神界から駆逐したが、『善』と『悪』は世界を構築する元素の一つで、どちらかをほろぼす事はできない。だから、『切り捨てた』とはいえ、妾の『負』の心は今も『ルディオール』となって生きている。彼奴を滅ぼす事は、すなわち、妾も滅ぶという事と等しい」


 アルヴィーズは厳しい目元をふとゆるめ、跪いたリセルをどこか懐かし気に見つめた。


「だが彼奴が純粋な『悪』であることにかわりはない。かといって、妾は再び彼奴とは一緒になれぬ。我々は元は一つでありながら、全くに成り果ててしまったのだ。妾の『負』の心は『ルディオール』という神となり、地の底でいつか妾に一矢報いようと機会を狙っておる。そこで私は、一人の信頼できるに役割を与えた。妾の『負』の心、あるいは『妾自身』が、世界の均衡を乱す存在となったとき、その力を封じてくれるようにと」


 リセルはおずおずと口を開いた。


「アルヴィーズ。それは、御身の護身のためですか」


 アルヴィーズは悲し気に瞳を伏せた。


「妾と『ルディオール』、どちらかが消失すれば、残されたもう一方も消滅する。『ルディオール』が世界を壊す存在となったら、妾は潔くこの身に彼奴の刃を受けようぞ。だが、妾達が地界で争えば、そなたたち人間の世界は確実に滅亡する。地は引き裂かれ空は暗雲が広がり、生き物を育む日の光は二度と降り注ぐ事がないだろう。この世は亡者と悪霊の嘆きの声が風のように通り過ぎていくだけだ。妾はそなたの世界をそのようにはしたくない。だから、そなたたちが自らの世界を守れるように、私の力の一部をとある者に託した」


 アルヴィーズは静かにリセルの所に歩み寄ってきた。


「そしてそなたが当代の『監視者』だ。リセルよ。そなたのみが、現世で『ルディオール』を封じることができる。だからあやつを喚び出した事は『必然』だったのだ」


 リセルはアルヴィーズの深い青色をした瞳を覗き込みながら、心が掻きむしられるように苦しくなるのを感じた。


「わたし、は」


 ずっと心の奥底に封じ込めていた『想い』が、アルヴィーズの神々しい光に照らされて胸元までせり上がってくる。


(――わたしはただ、あの場から逃げ出したかった)


「くっ……」


 リセルはアルヴィーズの視線に耐え切れず、思わず足元に手をついて頭をたれた。

 アルヴィーズはそれを黙って見下ろしていた。


「そなたたち人間もまた『善』と『悪』の心を一つのうつわに持つ者。時には迷い、間違った道を選ぶこともある。だがそなたを責めているのではない。そなたは己の間違いに気付き、それを正そうとしている。自らの命をかけてな。だから妾は、そなたにかけられた『ルディオール』の呪いを解く。そして古の契約に従い、彼奴を再び地の底に封じて欲しい。『監視者』リセル・エレディーン」


 太陽神は身を屈め、そっとリセルの額に唇を寄せた。


「さあ、そなたの魂を地界に戻す時間がきた。呪いを解く方法を教えるからよく聞くのだ。目がさめた時の朝、神殿で朝日を一番に浴びる場所へ行き日の出を待つのだ。苦しいかもしれないが、じっと耐えればいつか終わる。いいな、目がさめた時の『夜明け』だぞ」


 リセルは神々しい大きな力に満ちたアルヴィーズの存在が徐々に消え失せるのを感じた。


「アルヴィーズ!」


 不安に駆られて思わずリセルは太陽神の名を呼んだ。

 だが周囲は再び白い霧に包まれ、何も見えなくなった。



   ◆◆◆ 

 

 

 子供のようで子供でない。

 不思議なひと。


 アルディシスは神殿内の居室で、未だ眠り続けるリセルの顔を見つめていた。

 その肌は新雪のような輝きを放つ白銀の髪と同じように色を失い、身体は神殿の壁に彫刻されている神々の像のように冷えきっている。

 けれど彼女は眠っているだけだ。そう、連れの神殿騎士は言った。

 

(あの人も何者なの?)


 アルディシスは純白の法衣の上に緋色の肩掛けを羽織り、そっと冷たくなった手先を擦りあわせた。

 この世界に太陽の光が射さなくなってはや五日。

 山の中に造られた神殿のせいもあって、晩秋のような冷えを感じる。

 このまま気温が下がるのなら、山を降りて王都まで戻らなくてはならない。


「うん……」


 小さなうめき声を聞いた気がして、アルディシスは後方の寝台を振り返った。


「あら」


 思わず感嘆の声を漏らす。

 簡素な木の寝台には、この二日死んだような状態で眠り続けていた子供が身体を起こし、小さな手で眠そうに目蓋をこすっていた。アルディシスはゆっくりと寝台まで近付いた。


「よかった。目が醒めたのね」

「……」


 子供――リセルは、アルディシスに気付いて、ぎょっとしたかのように紅の瞳を見開いた。


「ちょっと今、なんて言った?」


 リセルはかん高い声でそう叫ぶと、慌てたように布団を引きはがし寝台から飛び出した。


「駄目よ、急に起きちゃ! あなた、ほとんど死人と変わらない状態で眠ってたんだから。また倒れちゃうわよ」


 アルディシスは夢中でリセルの小さな身体をつかまえた。リセルはアルディシスが子供の頃着ていた白い法衣を纏っている。寝巻き代わりにちょうどよかったから着替えさせたのだ。


「ねえ教えて! この神殿内で一番最初に朝日が射す場所はどこ?」


 リセルがアルディシスに向かって叫んだ。

 ただ事ではない形相で。


「この部屋を出て、まっすぐ行った突き当たりの階段を一番上まで走れ」


 若い男の声が出入口の扉の前で聞こえた。

 黒髪の神殿騎士、ルーグが扉を開けて何時の間にか立っていた。


「あっ!」


 リセルは白銀の長い髪を靡かせて、突風のようにアルディシスの前から走り去っていく。


「ちょ……ちょっと! 一体なんなの? あれ!」


 アルディシスは扉の前に立つルーグに向かって叫んだ。

 ルーグは涼しい顔をしながらも、どこか緊張した面持ちでアルディシスに視線を投げた。


「感じないか? アルヴィーズ神の力が徐々に強くなってきた事に?」

「えっ、あっ……それは……」


 アルディシスは目を閉じ昂った心を落ち着かせた。

 気付かなかった、暖かな気配。

 それは今まで毎日感じていた太陽神の力の証。


「朝が、来る」


 再び目蓋を開いたアルディシスは、ルーグが同意するようにゆっくりとうなずくのを見た。


「アルヴィーズもようやく重い腰を上げたようだ。さて我々も行こう、巫女どの。五日ぶりの『夜明け』を見に。そしてあの子の呪いが解けたら、それを祝ってやろうじゃないか。ねえ?」


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