第206話 タバコ味



 奇跡が起こった。


 降り注ぐ矢がすべて叩き折られ、ホエルンが俺を払いのける。


「何してるんだ。はやく逃げろ」


「スレイド訓練……パパ、ここは私に任せて」


「いま訓練生って! ってことは記憶が……いや、だったら大尉って呼ぶはずだ。もしかして、まだ完全に記憶を取り戻せていないのか?」


 ホエルンは頬に指を当てて、考える仕草をした。女性らしい可憐な仕草だが、だまされてはいけない。鬼教官が恐ろしいことを企んでいるときの癖だ。


「微妙なところね。でも安心してちょうだい。


 実に頼もしいお言葉だ。しかしバルコフはちがう。あれはZOC並の化け物だ。単純に強いだけでなく、厄介な飛び道具もつかう。


「逃げてくれ、あの老人はヤバイ。はやくここから」


「タバコ持ってる? フィルターのあるやつ」


「渡しますから、はやくッ!」


 とっさのことなので、指を切り落とされたことを忘れ、怪我をした右手を懐に入れようとした。慌てて、左手で軍支給のタバコをさしだす。


 恐ろしいかおを見た。


 鬼教官はまるで道端のゴミを見るような冷たい眼をしていた。表情は仮面のように無感情で、そのくせ言葉をかけづらいオーラを出している。

 こういう時の彼女は、決まって体罰を言い渡す。それも訓練生が漏らすレベルの……。


 唐突に、ホエルンは鞭を振った。

 大気を叩く鋭い音が戦場に響きわたる。


「無粋ね。教官と訓練生が愛を語らうのを邪魔するなんて」


 愛? あなたそういうキャラじゃないでしょう……。


 背後へと振り返るホエルンの視線の先には、剣を振り下ろしたバルコフがいた。


 まさかとは思うが、今の一撃であの出鱈目な攻撃を打ち消したとか……ホエルン教官ならあり得る!


 鬼教官が三度放たれた矢を無効化したところで、部下が駆けつける。


「隊長、大丈夫ですかッ」


 声をかけてくる部下も無傷ではない。誰しもが傷を負っている。


「大丈夫だ、それよりもはやく逃げろ」


「それは駄目よ。あなたたちパパを護衛しなさい。これは命令よ」


 有無を言わせぬ厳しい口調。本能的に悟ったのか部下は上官である俺よりも、鬼教官の指示に従った。


「りょ、了解しましたッ!」


「よろしい、では私は敵の殲滅せんめつに移ります。くれぐれもパパの護衛をおこらないように」


 厳命すると、ホエルンは優雅な足取りで進んだ。バフコフのもとへ。


 鬼教官は健在だ。立ちはだかる敵を片っ端から撃破していく。

 ある者は頭を吹き飛ばされ、またある者は首をへし折られ、大気を打つ鞭の音とともに、ホエルンは次々と死体を量産していく。その様はまさに鬼だ。死をまき散らす鬼。

 生み出される惨劇、山のように積み上がる死体。地獄絵図を生みだしている女性はさも散歩を楽しむように、それでいて淀みない歩調で進む。


 バルコフが吠えた。

「貴様、一体何者だッ!」


 いつの間にかバルコフの周囲に騎士があつまっている。十や二十ではきかない。

 敵の大将はちょっとした人の壁を前にしているのに、ホエルンの歩みに変化はない。


「何者って聞かれても、〈猛獣遣い《ビーストテイマー》〉って渾名あだなのつまらない訓練教官って答えることくらいしか……あっ、こういう場所では大佐と名乗ったほうがいいわね」


「肩書きではない、名を名乗れ」


「ホエルン・フォーシュルンド、冴えない独身女性よ。ところで、彼を傷つけたのはあなたで間違ってないわよね」


「それがどうした」


「確認よ、確認。パパを傷つけた相手なんだから殺さないと。生かさず逃がさず確実に」


 ホエルンとバルコフの一騎打ちが始まると思いきや、邪魔が入る。


「バルコフ閣下、お逃げください。ここは俺がッ!」


「よせアブロ、おまえの適う相手ではないッ!」


「死は覚悟の上、閣下はこのようなところで倒れてはならぬ御方。我らが覇業のためにも、ここは恥を忍んで退却を」


 敵ながらあっぱれな騎士だったが、次の瞬間、頭がぜた。


 普通であれば美談を最後まで見届けるのが物語のセオリーであろう。ご覧の通りホエルン・フォーシュルンドという女性にそんなセオリーは通用しない。ベテランの女性軍人は敵に容赦がないのだ。


 ともあれ、アブロという尊い犠牲のおかげでバルコフは生きて戦場をあとにすることができた。鬼教官の魔手からまんまと逃げ延びたのである。


 これを機に敵は総崩れとなった。


 バルコフだけでなく、俺も九死に一生を得た。双方痛み分けと言いたいところだが、襲撃は大成功。敵はかなりの数を減らして、手ぐすね引いて待っているロウシェ伍長たちのもとへと走っていった。


 バルコフも手負いだし、逃げた敵兵は罠もそっちのけで逃げに徹するだろう。うんざりするほどの罠を仕掛けている、かなりの被害が出るはず。


 アクシデントはあったが、なんとか任務を達成できて、ほっとする。


 張り詰めていたものが緩み、だらしなく地面に座り込んでいると、ホエルンが戻ってきた。


「……教官、何か?」


「火、貸してもらえる」


 鬼教官は咥えタバコで顔を近づけてくる。タバコが邪魔だったけど、なんとなく昔見た映画のキスシーンを思い出した。これがティーレなら抱きつくだろうが、相手は鬼教官だ。

 どんな体罰を言い渡されるのかと、別の意味で心臓がドキドキする。


 とりあえず、素直に返事をして、威力を調整した〈発火パイロ〉で火を出した。


「どうぞ」


「何それ? 超能力サイキック? 随分とおもしろいことができるようになったのね」


 タバコに火を点けると、鬼教官は軽く吹かした。


 士官学校時代、世話になった女性教官は様になるポーズでタバコを吸う。ちびたそれを宙に投げると、しなやかに腕を振るった。

 ヒュルンと鞭が鳴り、ちいさな破裂音とともにタバコが四散する。


「スレイド訓練生、怪我は大丈夫? 立てる?」


「大丈夫です」


 立ちあがろうとして盛大に転んだ。


 地面にキスする前に、グンと引きあげられる。

「大丈夫じゃ無いじゃない」


「ハハッ、すみません」


「本当のことを言いなさい」


「……ちょっとふらつきます。ここのところ寝不足でしたから」


「…………」


 教官は何か言いたそうだったが、顔を背けた。鞭を鳴らして部下たちに命令する。


「あなたたち、私がいいって言うまで向こうを向いてなさい」


「あの、向こうって」


 再度、鞭を鳴らして遠くの空を指さした。


「はやくしないと頭が消し飛ぶわよ」


 まったくもって恐ろしい女性だ。そう思ったのは俺だけでなく、部下はことごとく指さす方角へ顔を向けた。


 鉄拳制裁の時間か? 俺は降りかかるであろう不幸に備えた。


「スレイド訓練生、なんで身体をこわばらせているのかしら?」


「……できれば、教育的指導は優しく願います」


「そう、それがお望み?」


「はい」


 襲い来るであろう衝撃に、ぎゅっとまぶたを閉じる。


 経験したことのない感触がした。

 なんと表現すればいいのだろう。寄生型の宇宙生物が身体を乗っ取るときのような……そう、口のなかに侵入してくる…………侵入?!


 にがッ!


 思わず目を見開いた。

 そこそこの美人がいた。


 ざらつく何かが、舌を擦る。

 えっ、何これ? 俺どうなってるのッ! っていうか鉄拳制裁は? 脳筋式教育的指導は?


 混乱していると、

「ん、んんッ…………ぷはぁ」

 艶めかしい声音とともに、美人の顔がフェードアウトした。顔にかかる湿り気を帯びた吐息が、体験したことが夢でないことを告げる。


「スレイド訓練生……よかったら私なんてどう?」

 それ順序逆でしょうッ!


 ツッコミを入れたい衝動しょうどうに駆られたが、鬼教官の第二波によって俺の理性は木っ端微塵ぱみじんに打ち砕かれた。




 あとで保存してあったデータを確認すると、大人なキスからタバコの成分が検出されたとログが残っていた。

 タバコを吸っている人とキスすると苦い味がするんだ……。

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