4-4 通じるもの

 ——念仏とお布施を欠かすわけにはいかない。あんたたちは神さまの子になるんだから。


 茫漠とした意識の中、どこからともなく声が響いている。


 ——ねぇお母さん、お父さんは?

 ——あの人はねぇ、わたしたちを惑わす悪しきものなんだよ。あんたたち二人はちゃんと神さまに近づけるよう、わたしが頼んであげるからね。これはあんたたちのためでもあるんだから。


 一家の父親は、家族を見捨てて出ていった。

 元々よそに女がいたとかで、妻が妙な宗教に嵌まったことはちょうどいい口実だったのだ。


 ——あんたたちの幸せのためだよ。


 卓袱台ちゃぶだいの上の夕飯はいつも粗末だった。

 母親が食前の念仏を唱える長い長い時間を、兄妹はじっと耐えていた。


 ——あんたたちの幸せのためだよ。


 幸せになるには『徳』を積まなきゃならないらしい。

 そう言って、母親は『徳』なるものを積むのに忙しかった。


 借家とはいえ、兄妹の生まれる前から家族で住んでいる家だった。

 居間の太い柱には、横向きの傷がたくさん並んでいた。

 そこに背を当てて気を付けの姿勢を取る妹。妹の頭の位置に定規を当てて印を付ける兄。

 同年代の子の平均よりもずいぶん低い位置にあるそれを、二人で喜んだ。


 ——うちは普通じゃないんだって。普通のお母さんは、ごはんの時に念仏なんか唱えないんだって。


 そう訴えた妹を、母親は打ち据えた。みみず腫れになった妹の腕を、兄は手当てしてやった。

 妹は母親の顔色を窺って、口数が減り、表情も乏しくなった。大人しく従順な妹の様子を、母親は喜んだ。


 ——あんたたちの幸せのためだよ。




 ホワイトノイズ。場面が切り替わる。




 ——弐千佳にちか、弐千佳、大丈夫?


 あぁ、だ。

 辺りは暗い。すごく暗い。だけど朧げに見える物のシルエットには覚えがある。古い自転車、車のタイヤ、工具のセットに、コードリール。

 これは、実家の倉庫の中だ。


 ——自分の力をコントロールする術を覚えなさい。他でもない、お前自身のためだ。


 父はそう言った。

 私のためならば、従うのが正しい。

 善意を無下にするのは、悪と同じだ。


 私が、こんな気質だから仕方ない。


 下腹部が痛む。頭が割れそうだ。身体も怠くて、無性に苛立ちが募る。

 暗闇に潜む負のエネルギーが私を取り巻いて、時おり意識が遠のいた。

 こういうのは、私が呼び寄せているらしい。気を抜いたら侵食されてしまうだろう。


 ——かわいそうに。弐千佳、僕がここにいるからね。


 外から壱夜いちやの声がする。胸がときめいて、気持ちが緩みそうになる。


 ——他でもない、お前自身のためだ。


 父の言葉が重くのしかかる。

 縋りきってはダメだ。

 境界線を、引かなければ。



 緩い光が瞼を撫でる。

 ハッと目を開ければ、シミ一つない白い天井とシミだらけの古い木の天井が二重写しになっている。

 いずれにしても眩しい。倉庫からやっと出してもらった時みたいに。

 やたらと身体が重かった。鈍い頭痛もあるし、何より下腹部がキリキリしている。


 現場に入ってから、予定外に月経が来ることはままあった。

 どうしようもない女の身体。

 器たる私は、うつし身に負の念を溜め込みやすい。自分で作ったテリトリー内に限り、望めば自ら胎内に念や魂を受け容れることだってできる。

 負の念を凝縮して澱みとして排出するのに、経血を流す。溜まったものを排出したいと強く念じたら、そういう体質になった。

 集めて、浄化して、排出する。それは、私が自ら克ち得た力の一つだ。

 血筋が下地としてあればこそだとしても、我ながらイカれていると思う。


 湿度が高い。ツナギは夏物だけど、肌には薄っすら汗が滲んでいる。

 硬いフローリングに敷いた寝袋は、中に潜るのではなくマットのように使っていた。タオルケット代わりのバスタオルを蹴って身体の上から退かし、私はぐったりと横たわり続ける。

 幻影混じりの景色で、己の現在地もあやふやだ。

 起きなきゃ。だけど、上手く動けない。

 身体の中に入り込まれている、という感覚があった。いつもより消耗が激しい。これはあまり宜しくない。


 ——弐千佳。


 耳に残る甘い声。

 髪に触れられたような錯覚。


 ——弐千佳。


 刹那、言いようもないほどの悪寒が全身を駆け巡り、ヒュッと喉の奥から息が漏れた。

 襲われている。視認できないのは、主導権を相手に握られているからだろう。

 私のテリトリー内で、だ。


 気持ち悪い。いや落ち着け。呼吸を整えろ。

 いくらか集中力を高めたところで、ようやく身体が動いた。

 九字を切ろうと印を結びかける。だけどその前に、念はすぅっと私の身体から抜けていった。


「……はぁっ」


 部屋は元通り、無機質ながらんどうに戻っている。

 いったい何だったのか。何度か息をつくと、心臓が思い出したよう騒ぎ始める。

 胸の底がひどく冷えていた。

 この場に巣食っているのは、やはり——


 と、その時。

 ドンドンドンドン!

 激しいノックの音に、全身が跳ねた。


「弐千佳さん! 大丈夫すか! 開けますっ!」


 言うが早いか扉が開いて、有瀬ありせくんが飛び込んでくる。

 身構える暇もなく抱き起こされた。目の前は極彩色のハイビスカス柄に塞がれている。


「うわー弐千佳さん良かったぁ! 無事?」

「ちょっ……何⁈」

「いやね、隣の部屋で普通に寝てたんすけど、急にやべえ悪寒で目ぇ覚めて! 弐千佳さんの部屋側の壁からイヤーな気配がしたから、なんかやべえことになってんじゃねえかって! あーやべえ超ビビったー!」

「こっちは有瀬くんのせいでやべえほどビビったんだけど」


 本気で心臓が口から飛び出るかと思った。

 とはいえ、背中をさすってくれる大きな手は温かくて、波立っていた気まで落ち着いてくる。


 スマホを見ればまだ朝の六時過ぎだ。トイレへ行ったら案の定、月のものが始まっていた。

 改めて有瀬くんと向き合って、腰を落ち着ける。


「ええと、有瀬くんの方にも念が行ったってこと?」

「うん、たぶん」


 私が『器』として場にいるうちは、念は私の身体に集まるため、他の人のところへ行くことは余程ない。有瀬くんのようなタイプならば尚のことだ。


「つまり、私の受けた霊障が有瀬くんにも伝わったってことか。私の気に馴染んだせいで、私がテリトリー内で受けた感覚を有瀬くんも共有しやすくなってる、かも?」

「えっ! 俺らそんなすげえことできるの? 重要情報とか、離れたとこでもシェアできたら超便利っすね。極めてぇー!」

「そんなLIMEみたいなものではないよ」


 スタンプ連打してきそうな勢いだ。


 実際、魂レベルで繋がれば、離れていても感覚を共有できたりする。

 しかし相性が良いとはいえ、自然にここまで繋がるだろうか。まだ組んで三ヶ月なのに。

 私を襲った念がやけにあっさり抜けていったのも不気味だ。


「何にせよ、ごめん、びっくりしたよね」

「えー、なんも謝ることないっすよ。でも、これなら弐千佳さんがピンチの時にも気付けるってことっすよね」


 そう言って笑う有瀬くんは、自然に陽の気を纏っていた。


「有瀬くん、今ってさ、気のコントロールの意識はしてる?」

「へ? いや?」

「天然で出てるのか、その陽の気は」

「もしかして、このカーッと熱い感じのこと?」

「そう」

「えーなんでだろ。弐千佳さんがやばいと思ったら、勝手にこうなってたんだけど」


 首を傾げるゴールデンレトリバー。でも、間違いなくその線だろう。思い返せば、これまでも私がネガティブな状況にある時に発揮されていた。


「私の陰の気が、有瀬くんの陽の気を引っ張ってるのかもね。バランスを取るような感じで。感情任せじゃなくて、意図的にできればいいんだけど」


 かなり明快なヒントだ。私の気のコントロールで誘導できる可能性もある。


「で、弐千佳さん、何か幽霊関係のものは視えたりした?」

「ああ、うん。この家に住んでた家族の過去の念と……」


 少し、言い淀む。だけどこれだけ通じている相手に隠し事も無用だろうと、思い直す。


「それから……私の、兄が出てきた」

「お兄さんが」


 視た内容について、搔い摘んで説明する。


「後半はどちらかというと私自身の記憶だけど、兄に繋がる内容だった。それから、私を襲った念……私のテリトリー内で私の内側に干渉する力を持つ魂なんて、そうそうない」


 ついでに言えば、有瀬くんの溢れるような陽の気を貫通して、なお霊障を与える力の持ち主ということだ。


「兄の魂が、私にアクセスしたのかも」

「マジすか。でも、なんでお兄さんが弐千佳さんを攻撃するの?」

「……兄は、私を恨んでると思う」

「えっ、そうなの? なんで?」

「私が兄を助けずに、封殺したから」

「その方法でやるって決まりだったんでしょ? そうするしかなかったんなら仕方ないのに」

「向こうは、そうは思ってないのかも。じゃなきゃ私を襲ってこないはず」


 兄が怨霊化して残っている可能性。この依頼を受けた時点で、ある程度は予想していた。

 五年前は私も未熟だった。中途半端だったのは、術か、覚悟か。


「五年前、何があったんすか。なんでお兄さんはそんなことになっちゃったの?」

「前回も私が怨霊の記憶を視て、兄に共有したんだけど……兄はその念に同調して、闇に引っ張られたんだと思う。あっという間の出来事でね……私、しばらく動けなかった」

「そっか……この家のお兄さんも、もともと妹思いだったみたいだもんね。類友的なあれっすね」


 瞬く間に闇へと呑まれていく兄の姿を、ありありと思い出せる。きっと一生忘れられないだろう。


「あのさ、弐千佳さんのお兄さんて、どんな人だったの?」

「え?」

「お兄さんの魂と会話して誤解が解けるんなら、その方がいいかなって」

「誤解されてるなら、それは私が受けるべき罰だよ。兄を殺したのは事実だから」

「んー、でも、そういう理由で闇堕ちしたくらいだし、お兄さんも弐千佳さんのことが大事だったんじゃないの? 仲良かったんすよね? 一緒に仕事してたくらいだし」

「仲、良かったっていうか」


 どう説明すべきか、一瞬迷った。


「……普通の兄妹よりは、強い繋がりだったと思う」

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