1-5 幻影と壁の穴

 パチン。パチッ、パチン。

 爆ぜるようなラップ音で、意識が浮上した。


 ——ひどい、ひどいよ。

 ——どうしてあたしばっかり、こんな目に遭うの。


 誰かの嘆きが聞こえる。

 誰かの白い脚が眼前にある。

 誰もいないはずの部屋で、誰かが私の真横に立っている。


 息を呑む。私はミノムシみたいに寝袋にくるまって、上手く身動きが取れない。


 ぽとん、と。

 目と鼻の触れるほどの先、何かが床に落ちた。


 御守りだ。


 ——ごめんなさい。


 ぞくり。悪寒が背筋を這う。

 二本の脚が上部からすうっと透けて消えていくのを、私はただただ眺めていた。


 夢かうつつか。


 ゆっくりと半身を起こす。

 周囲を見回せば、そこは見知らぬ部屋だった。

 安物っぽいパイプベッド。折り畳みできるローテーブル。薄いラグマット。

 小さなテレビに、たくさん洋服のかかった開けっぱなしのクローゼット。

 床に散らばった、ゴミが入っているらしいレジ袋や、脱いだままのルームウェア。

 本当に、だ。


 ぼんやりした頭を覚醒させたのは、突き刺さるような強い光だった。


「うっ……」


 カーテンのない窓から朝日が直に差し込んでいる。眩しい。何度か瞬きを繰り返すうち、明るさに目が慣れてくる。

 先ほど視たものは、今やすっかり消え去っていた。

 元通りの部屋だ。何もない、がらんどうの。私とて、剥き出しのフローリングの上にいる。

 逆光に沈む窓枠の上、有瀬ありせくんの貼ってくれた霊符がある。


『接触できるタイミングを狙って、私の術の中に霊を捕獲する』

『平均すると二泊三日のうちには片付くことが多いかな』


 有瀬くんにした説明は、私の手の内の全てではなかった。


 私は生まれつき、負の性質のモノをひどく引き寄せやすい体質だ。

 とりわけ自分のテリトリー内では、眠っている間にその場に蔓延る念を身体の中へと取り込んで、内側に溜める『器』となる。

 体内の念はさながら麻薬のように、元となった記憶の幻影を私に視せる。すなわち、霊の未練や無念の残滓を。

 こうして集めた念を手繰れば、本体の魂にも接触できる。それが可能となるほど身に馴染んでくるのに、だいたい二晩ほどかかる。


 深呼吸して、息を整える。冷えた空気が肺に気持ちいい。

 やや足を速めていた心臓が落ち着いてきた頃。

 今度は、鐘を撞くような鋭いチャイムの音に全身が跳ねた。


無量むりょうさん、おはよーございまーす!」


 玄関を開けるなり、有瀬くんが転がり込んでくる。


「うわぁ、こっちも朝日やべえ! もう、超早い時間に目ぇ覚めましたよー」

「この窓、南東向きだしね。カーテンないとモロに光が入ってくるよね」

「カーテンあいつ……! すげえ重要な役目を背負ってたんすね。俺史上初めて認識しました」

「学びがあって良かった」


 朝から元気だな。


「光と言えば。俺、やべえことに気付いたんすよ」

「うん、何」


 どうせちょっとしたことだろうと、話半分に相槌を打った。

 有瀬くんは部屋の壁を調べ始めた。開け放してあったクローゼットの中に入り込み、声を上げる。


「あっ、あったあった。これ見てください。ここの壁にちっちゃい穴が開いてるんすよー」

「え? 穴?」

「ほら俺、電気全部消して寝る人じゃないすかー。昨夜も真っ暗ん中いたら、壁から光が漏れてるのに気付いて」


 確かに言われた通り、クローゼットの奥の角、屈んだ視線の高さに穴があった。縦に長い、十ミリ程度の。一見ただの傷のようにしか見えないそれに、私は片目を近づける。よくよく目を凝らせば。


「うわ、こんな小さくても一応向こう見えるね」

「ホラーやエロじゃ定番っすよね」

「ホラーでもエロでもなく、壁の穴はままある賃貸トラブルだよ」

「あ、俺は覗いてないんでー」

「別に見られて困るものも置いてないけどね」

「何言ってんすか、そういう問題じゃないっすよ。俺、女の人の部屋覗いたりしないんでっ!」

「あ、うん」


 思いがけず強めの語気に、少し驚いた。


「この部屋で死んだ人、ストーカーされてたって話じゃないすか。もしかして隣の部屋の住人に監視されてたんじゃないかって思って。そういうの、絶対ダメでしょ」

「あぁ、なるほど」


 意外とマトモだな、この子。


 記憶を探る。さっき二重写しに視えていた、かつての住人の部屋。穴のあるクローゼットには、洋服がぎっしり詰まっていた。


「ここ、物があったら、向こうから見通すことはできないんじゃないかな」

「まぁ確かに」

「見た感じ誰かが故意に穴を開けたっていうより、虫が食ったか、劣化して亀裂が入った感じだよね」


 壁を叩けば軽い音。恐らく薄い石膏ボードで、中が空洞なのだ。隣室との間にクローゼットを挟むことで、壁の薄さをカバーしているものと思われる。

 念のため204号室に回ってみると、二部屋のクローゼットが互い違いに配置された間取りだった。こちらの穴はクローゼットのドア枠の際で非常に分かりづらい。盗撮用の小型カメラを通したような痕もない。

 今回のような状況でもなければ、気付くことはなかっただろう。


「でも隣の人だったら、彼女がいつ家にいるかとか分かったんじゃないすかね」

「まぁね」

「となると浮上してくるのが、自殺と見せかけた殺人事件説っすよね」

「つまり自殺じゃなくて、ストーカーに殺された可能性があると」

「そうっ!」


 有瀬くんは自信満々に続ける。


「これは密室殺人だったんすよ。犯人は壁の穴からめちゃくちゃ長い針金を侵入させたんでしょうね。その針金を上手いこと操って、どうにかこうにかタオルで輪っかを作って、彼女の首に引っかけて殺した。犯人はやべえ針金テクを持った、隣の部屋にいた人間で間違いないっす。謎は全て解けた!」

「いや間違いなく無理があるわ」


 一気に脱力する。


「あのね有瀬くん。仮に他殺だったとしても、犯人や殺害方法を解き明かす必要はないんだよ。霊がこの部屋に居座る理由さえ分かればね。ただ——」

「ただ?」

「殺されたことで怨念が残った。そういう見方はありかも」

「おーっ!」


 私はこめかみを揉み解す。


「明け方、霊の姿を視たよ。声も聞いた。『ごめんなさい』って」

「マジすか! 幽霊の人、謝ってたんだ。誰に?」

「さぁ、そこまでは。だけど、部屋の中にいた別の誰かに対しての言葉だった可能性はあるね」

「侵入してきたストーカーとか?」

「無理やり誰か押し入った形跡はなかったはず。彼女が自分で招き入れたのかもね」

「あっ、もしや別れ話の拗れた元カレがストーカー化しちゃったパターンとか? もっかい『ごめんなさい』って話つけようとしたら、彼氏が逆上して……みたいな」

「合鍵を持つ間柄だったら、自殺に見せかけて殺した後に、部屋を出て外から鍵をかけられるね」


 そうなると、彼女の未練は相手への怨念ということになる。


「でも、じゃあ鍵はなんでわざわざ勝手に開くんすかね」

「うん、それね。嫌な相手が入ってきて殺されたのなら、その怨念で鍵が開くっていうのは違和感がある。もう少し手がかりが欲しいな」

「壁の穴は関係ねえのかな」

「何にせよ、穴があることは大家さんに伝えた方がいい。今後誰か住むにも、ちゃんと埋めないと」

「っすねー」


 こういう細かなことも仕事の一つだ。あくまで不動産屋の下請け。住み良い部屋に戻すことが私の役目なのである。


「仕事柄いろんな部屋に寝泊まりするけど、古い物件であればあるほど、傷とか汚れとかシミが多いんだよ。事故物件って先入観で見ると、どうしても『事故』と結び付けて考えがちになる。状況と現象と、念との因果を見極めないと」


 ぎゅるる、と有瀬くんの腹が鳴った。


「腹減りました」

「因果が分かりやすい」

「俺、コンビニで何か食うもん買ってきます。無量さんも何か要ります?」

「じゃあ適当に菓子パンとかカップ麺とか買ってきてもらえる? ついでにタバコもいいかな。切らしちゃって」

「了解っす。ピアニッシモの黄緑のやつでしたよね」

「よく覚えてるね」


 へへっと八重歯を見せて笑った有瀬くんは、洗面所で顔を洗ってから、元気よく出かけて行った。


 一人になって、改めて考えを巡らせてみる。


 かつてのこの部屋の主は、ストーカー被害を警察に相談していた。それは紛れもない事実だ。

 具体的に何があったのか知りようもない。せめて彼女の周囲の人間関係が分かればヒントになりそうだけど、警察は私のような立場の者には情報開示してくれないだろう。


 今あるヒントは、垣間見たわずかな光景と断片的に聞こえてきた声だけだ。


 ——ひどい、ひどいよ。

 ——どうしてあたしばっかり、こんな目に遭うの。


 そして。


 ——ごめんなさい。


 あの時、床に落ちてきたものがあった。

 御守り。

 あれは何だったのだろう。


 誰かアパートの住人が外階段をカンカンと降りていく音を遠くに聞く。生者の足音はかなり響く。

 今度は階下の部屋の玄関扉の閉まった音がした。拍子に、この部屋の柱がピシッと鳴った。ラップ音ではないことは分かる。何の念も感じないから。


 息をついた。

 煮詰まってくると口寂しくなる。手元にはタバコの空箱があるだけだ。

 私はしばらくぼんやりしたまま、騒がしいアシスタント(仮)の帰りを待った。

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