第12話 事件異次元


「?おい、どうした?」


強盗が声をかける。まさか今さらお金が惜しくなったのか?


チェリ山はふるえる声で言った。


「な、なんだよ…!そ、そのうしろのやつは…?」


「え?」


強盗がふりむく。


「な、なんだこりゃ!?」


強盗の頭くらいの高さにむらさき色のケムリが生まれていた。それもだんだん増えて、おおきく、濃くなっている。


「う、うわっ!?」


突然、ケムリのなかからおおきな虫の手が出てきて、強盗の肩をつかんだ。


「は、はなせっ!」


虫の手は強盗の肩に食い込んでいた。強盗はジタバタあばれて、手に持っていたナイフを落とし、つかまえていた小春子も放した。


「きゃあっ!」


「小春子!」


とっさにチェリ山がかけつけて、小春子を助け起こそうとした。


それと同時に、強盗のからだが浮いた。


「きゃあああああ!」


「うぎゃあああああああ!」


小春子とチェリ山は本格的な悲鳴をあげて、兄妹仲良くその場で気絶してしまった。ムリもない。それほどショッキングで信じられないものを見たのだ。


ふたりの目の前では、人間の大人よりおおきなサイズのトンボが、強盗のからだをもちあげていたのだった。


それを間近で見あげるのは、どんなホラー映画よりも強烈だったろう。


ブブブブブブブブ


すさまじい羽音を鳴らして、おおきなトンボは強盗の顔をのぞきこんでいた。強盗は恐怖に顔をひきつらせていた。


いったいなんなんだ!?


さっきまでも十分非常識な事態だったのに、これはもう次元がちがった。


ありえない…!


「め、メガネウラだ…!」


「は?」


テイラーが言ったのをあたしは聞き返す。


「大昔にすげーおおきなトンボがいたんだ。それがメガネウラ。化石も残ってる」


そういえば前にネットで、地球の酸素が濃かったころ、虫というのはいまより何十倍もおおきかったという記事を見たことがある。


だが、なぜいま?酸素だって濃くないだろうに。


「いや…!それにしてもおおきい!メガネウラは70センチくらいのはずだ!コイツはあの木彫りの大熊くらいある!いや、だが、もしかしたらほんとうはこんなにもおおきかったのか!?まるでトンボの王様、いや、神様じゃないか!」


わけのわからない非常事態だというのに、テイラーの目はキラキラし、声にはワクワクした響きがあった。


これはたぶん男の子だからだろう。男の子はなぜか恐竜とかでかい虫がいつどんなときでも好きだ。


やはり男の子心は理解できない。


「ぎょわああ!」


空中でとまっていたメガネウラが強盗をつかんだまま、空のあちこちを飛びはじめた。まるでダンスをおどっているようだ。


だが、それはダンスはダンスでも、死のダンスだった。


メガネウラはカチカチカチカチと音を鳴らしはじめた。なんの音かと思ったら、どうやらニッパーみたいな歯を打ち鳴らしているらしい。


強盗を食べる気だ。


だれもがそう思ったし、強盗もそう思ったのだろう。


強盗は必死に暴れた。だが、ガッチリと太い針金みたいな手足でつかまれていて、メガネウラから逃れることはできなかった。


メガネウラのニッパーのような口がおおきく開いて、強盗の顔面に迫った。


その時、強盗は「ウ、ウベェロ」とゲロを吐いた。あちこち飛び回られたのもあって酔ってしまったのかもしれない。


ゲロはメガネウラの顔面に直撃した。


「キシャアアアア!」


メガネウラは顔面にかかったゲロを払い落とそうとして、ついでに強盗もふり落とした。


「ああああああ!」


強盗は森のどこかに落ちていった。


「キシャア!キシャア!」


メガネウラはまるで怒ったような声で何度も鳴いて、首を信じられない角度までグルグルまわして、あたしたちを見下ろした。


首の動きが止まった。


…あたしを見ている気がするのは、自意識過剰だろうか?


メガネウラは羽をブルンッとつよく震わせると、一回転して、あたしにまっすぐ向かってきた。


「……っ!」


あたしは目を見開くばかりで、一歩も動けなかった。叫ぶことすらできない。


メガネウラの太い針金のような足が肩にふれようとしたその時、うしろに引かれた。


ここからはスローモーションで見えた。


あたしの肩を引いたのは、ポーだった。ポーはあたしの代わりになって、前に出た。


一瞬、目が合う。


むらさき色のうつくしい瞳が光って見えた。


ポーの肩にメガネウラの手足が食い込み、空へとさらっていく。あたしはむなしく手をのばした。


まるで、母が交通事故で死んだ時とおなじだった。


母は交通事故で死んだが、あたしをかばって死んだのだ。


その時も、手をのばした。


だけど、手がとどくことはなかった。


今回も、手がとどくことはなかった。


スローモーションが終わる。


近くで見るととんでもないスピードでメガネウラはポーを空へと連れ去っていった。まるで死神のように。


うしろにはいつの間にかテイラーがいて、あたしは抱きかかえられていた。


「落ち着け!ポーならだいじょうぶだ!」


「だいじょうぶなわけない…!だめ…!殺すならあたしにして!あたしを助けないで…!もうイヤなの…!こんなの…!」


いつまでも伸ばしていたあたしの手を、テイラーのおおきな手がにぎりしめた。


温かい。いや、ハッとするくらい熱い。


「見てろ」


場違いなほどやさしげな声でいわれて、テイラーの顔を見上げた。


テイラーのむらさき色の瞳もまた、さっきのポーの瞳とおなじように光っていた。


光ってる?そんなことがあるだろうか。陽の光や涙でそう見えるのではなかった。まるで大いなる力が宿ったかのような、神秘的な光だった。


あたしはテイラーに言われて、空を見上げた。


ポーはいまや点に見えるほど小さくなっていた。それだけ高いところまで連れてかれてしまったということだ。強盗の落ちた高さの比ではない。落ちたら確実に死んでしまう。


あたしはクラクラした。




「…困るな」


ポーはまったく困っていない声音で言った。一切怯えも震えもその声には含まれていなかった。まるでお茶会でのささいな一言のような響きであった。


空の上である。


太古の昔より崇められ、神性まで帯びた特殊なメガネウラにとってそこは自分のテリトリーであり、聖域であり、狩り場だった。


不敬を働く不埒者を贄とし、新鮮な血肉を得て、新たな信仰を得てきた。


なにより、空の上で自由に身動きできないものを、自由に肉塊に変える全能感は神にふさわしいものだった。


「まったく、かわいいかわいい妹をあんなふうに泣かせてしまってはお姉さん失格だよ」


ポーははるか地上にいるナナを見て涼しげに言ったものだ。


…どうやら少々寝すぎたようだ。メガネウラは人ならぬ言語で思った。


新たな恐怖を刻まねばならぬ。新たな肉塊を作らねばならぬ。さすれば人は恐怖に濁り、神を求めるのだから。


神が肉塊を作るのではない。肉塊が神を作るのだ。


手始めに眼下のものたちを…。


「だから困るって」


ポーはまるでメガネウラの思考に介入するように言った。


メガネウラは首を百八十度近く回転させて、ポーの顔を覗き込んだ。


むらさき色の瞳が発光していた。


ポーはやさしげにほほ笑む。


「お家にお帰り。今なら許してあげよう」


なにを言っているんだ。いや、なぜコイツの声がわかるんだ。人間の声など聞くに値しない蚊トンボの羽音に等しいというのに、なぜ頭に直接響いてくるんだ。


危険だ。


「おっと、変なことは考えないほうがいい。それがお互いのためだ」


危険だ。きけんだ。キケンダ。


メガネウラの思考がより原始に近づいていき、言葉を要しなくなった。本能に染まった。


次の瞬間、メガネウラはニッパーのような口を広げ、ポーのうつくしい顔をボリボリと捕食しようとした。


「下賤の神が、調子に乗るなよ」


常ならぬポーの不尊な言葉がメガネウラに届くより速く、地上から伸びてきた巨大な漆黒の刃に、メガネウラは体の中心から真っ二つにされていた。青い体液が飛び散る。


それは地上にあるポーの影から伸びていた。山よりも巨大な質量を持ち、海よりも深く濃い影から。


ポーの瞳は一際強くむらさき色に発光していた。

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