第2話 トラネコと王子
「着いたよ、ナナちゃん」
朝起きて、車に荷物をつめて、後部座席に寝転がって五秒目をつむったら、目的地に着いていた。
目的地は屋敷沢家。
これから一ヶ月間、あたしがお世話になる家だ。
正直、気が重い。はてしなく重い。
だけど、ここはひとつあきらめよう。
きっと一ヶ月間だって、目を閉じていればすぐに過ぎるだろう。
あきらめと悟りは、どうちがうのだろう?
「で、その屋敷沢さんの家はどこにあるの?」
車からおりても、屋敷沢家は見当たらなかった。
目の前にあるのは森林だった。ずいぶん広大だ。端っこが見えない。
父は森林にむかって両手をひろげた。
「これぜーんぶ、屋敷沢さんの家だよ」
「え、これぜんぶ?」
「そう!」
なぜか父が自慢げにほほ笑む。
父は学生時代に屋敷沢家に遊びにいったことがあるらしい。
「お屋敷は奥のほうにあるんだ」
「…お屋敷なの?」
屋敷沢という名前はそこから来てるの?
「うん。とても大きい。まわりの人たちからは、昔からお屋敷さまと呼ばれていたらしいぞ」
「ふぅん…、歴史があるんだね」
そんなところになんの由緒もないあたしが一ヶ月も住んでだいじょうぶだろうか。いびられたりしないだろうか。
ますます気が滅入ってきた。
不意に、目の端に黄色いシマシマのしっぽがゆれうごいているのが見えた。
ネコだ。
きっとトラネコにちがいない。
トラネコはモゾモゾとおしりをふり、長いしっぽをゆりうごかして、森のなかに消えていった。
これは追わねばならない。
言っていなかったが、あたしは無類のネコ好きだ。
沖縄に行くのだって、西表島に行って、イリオモテヤマネコに会うのが一番楽しみだったのだ。
それが叶わない夢となった今、新たな夢を追うべきだ。
あたしは、トラネコの消えたあたりに移動した。
そこには小さな木がいっぱい生えていて、足元には穴があいていた。
ネコ専用のトンネルのように思えて、あたしはワクワクした。
父を見ると「は~、空気がうまい…」と目をとじて深呼吸していた。
これからアマゾンに行くのだから、うまい空気は吸いたい放題だと思うのだけど、幸せそうだから放っておこう。
あたしは穴に頭をつっこんでほふく前進した。
思ったよりも広く、人間の子供くらいならむりなく通れた。
ネコ専用トンネルを通ったら、ネコの王国に着いたりして。はたまた、自分もネコになっちゃったりして。
なんて愉快な想像をめぐらしていたけれど、案外あっさりネコのトンネルは終わってしまった。数メートルしかなかった。
けど、トンネルを出たところは、きれいだった。
「おお」
思わず声が出たのは、ピンク色の花が咲いた木が何十本も生えていて、なんだか夢のような場所だったからだ。
木のはだがスベスベしている。サルスベリという木かもしれない。
木にはぜんぜん興味がないから、わからないけど。
スベスベした木の幹に、モフモフのおしりが見えた。
さっきのトラネコちゃんだ。
あたしはストーキングを開始した。
これも言っていなかったが、あたしはノラネコストーカー常習者だ。法には触れていないし、むりやりノラネコさんに触れるようなこともしない。
だから、安心してほしい。あたしは合法的なストーカーだ。
木の幹に体をかくして移動をくりかえす。トラネコちゃんはストーカーにねらわれていることを知ってか知らずか、あたしが移動するたびに、同じくらい移動して、おしりをフリフリ、長いしっぽをふっている。
まるでからかわれているみたいだった。
キュンとしてしまう。
「イタズラな天使だぜ…!じゅるり…!」
つい声とツバがもれてしまう。
あたしは木のかげにかくれて、スマホで動画撮影をはじめた。
この美を記録しなければならない―。
あたしは使命感に燃えていた。
ピンク色の花咲く木々の間を、黄金色のシマシマトラネコが歩いていく。
もはや芸術。
あたしはついていった。
やがて、一際おおきなサルスベリの木に着いた。
そこの根本にトラネコちゃんはすわって、こっちを見た。
ようやく真正面から見えた全体は、丸い、太い、美しいの三拍子そろったトラネコちゃんだった。
「パーフェクツッ!」
思わずガッツポーズをとった。
サルスベリの根本には、人が寝っ転がっていたけれど、今はそれどころじゃない。
トラネコちゃんは、寝っ転がった人の手前にぐでんと横たわった。
魅惑のポーズだ。
トラネコちゃんの美を後世にのこすために、あたしはサルスベリの根本にジリジリと近づいていった。
これまで行ってきたノラネコストーキングの経験上、あまりあせって近づいては逃げられてしまう。
あたしは荒くなる息を抑え、ツバをゴクリと飲み込み、スマホを構えた。
「…なにをしてるんだい?」
寝っ転がっていた人がどうやら起きたようだけど、今は手をはなせる状態じゃない。それどころか目もはなせない。
だが、危険だった。騒がれてはトラネコちゃんがどこかに逃げてしまう可能性がある。
「うごかないで」
「はあ?」
「いま、美を記録しています。お願いですから、うごかないでください」
「なにを言ってるの?」
「お願いします。この美は後世にのこすべきです。どうか、ご協力を」
あたしはなるべくトラネコちゃんを刺激しないように、ささやき声でお願いした。
「そんなこと急に言われても困るな…」
「わかります」
なぜ困るのかよくはわからないが、とりあえずわかっておいた。とにかくだまってほしかったから。
しかし、次に言われた言葉にあたしはハッとした。
「それに、いきなり撮るなんて許されると思ってるのかい?失礼じゃないか」
「…それは、そのとおりですね」
考えもしなかった。
たしかにネコさんからすれば、いきなり撮られるなんて迷惑かもしれない。ストレスだろうし。
ネコさんがしゃべれないのをいいことに、あたしはひとりよがりだったかもしれない。
「でしょ?」
「はい…。ごめんなさい」
あたしはスマホをもっていた手をおろした。
それからようやく寝っ転がっていた人を見た。
寝っ転がっていた人は、たぶん男の子だった。
たぶんというのは、学ランを着ていたからで、髪は長めのショートで、とてもきれいな顔をしていたからだ。歳はあたしより年上だ。たぶん中学生か高校生くらい。
めずらしい髪色をしている。トラネコちゃんの黄金色の毛と似ていた。
でも、それよりもめずらしいのは瞳の色で、透き通ったむらさき色をしている。その目で見つめられると、一瞬背筋が反射的にゾワッとした。
「で?」
「え?」
彼はイタズラっぽく笑った。
「いきなりはダメ。なら、お願いしてみたら?」
あたしはまたハッとした。
ネコさんにお願いするってこと!?
そんな素敵なことをしていいのか!考えつきもしなかった。
「…あの、撮ってもいいですか?」
あたしはモジモジしてしまい、トラネコさんの目を見れなかった。
だから、代わりに彼のむらさき色の瞳を見て言った。
「ふふっ、いいよ。きれいに撮ってね」
「はいっ!」
返事をして気づいたのだが、彼が答えたということは、きっと彼はトラネコさんの飼い主さんなのだろう。トラネコさんもぐでんと安心してくつろいでいるのだし、そのはずだ。
あたしは飼い主さんの許しも得たことで、ふたたび力強くスマホをかまえた。
ところが妙なことに、飼い主さんがやたらと映り込んでくる。しかも、笑顔を向けて止まっていたりする。
あたしが困惑していると、飼い主さんはなにかに気づいたようだ。
「…もしかしてそれって動画なの?写真じゃなくて?」
「あ、はい」
「そうなんだ。はやく言ってよ」
「え?はあ…?あっ、でも、よければ写真も撮りたいかも…」
「なるほどね。どういうポーズがいいの?」
「う~ん、自然体が一番ですかね。それが一番きれいですから」
「へぇ、なかなかわかっているね」
「いえいえ、それほどでも」
長年のノラネコストーキングの成果がほめられた気がして、すこしうれしかった。
「こういうのどう?」
飼い主さんはあぐらをかいた。
「トラ子、おいで」
トラネコさんはトラ子というのか…。センスがある!
飼い主さんがトラ子さんを呼んで、自分の膝をポンポンとたたいた。すると「に゛ぁん!」と言って、トラ子さんは飼い主さんの膝のうえにのった。
「わっ!すごい!」
「へへへ、いいでしょ?」
「はい!うらやましいです」
飼い主さんがトラ子さんのノドを指先でさすると、たちまちゴロゴロとトラ子さんはノドを鳴らした。
「……!」
あたしは言葉も忘れて、トラ子さんを良い角度で撮った。ピントを合わせて、写真も撮った。
トラ子さんが「フゴー、フゴー」と飼い主さんの膝のうえであおむけになって寝息をたてはじめた。
「もうそろそろいいかな?」と飼い主さんは言った。
「あ、はい。ありがとうございました」
「どう?満足したかい?」
飼い主さんがにこやかに聞いてきた。
「それはもう」
あたしは息をついて、しみじみと声に出していた。
「美しかったです…」
飼い主さんは得意げにウンウンとうなずいていた。
トラ子さんをほめられてうれしいのだろう。
いい飼い主さんだなと思った。
「写真見せてよ」
「はい。もちろんです」
あたしは飼い主さんに写真フォルダを開いたスマホを渡した。
「どれどれ…?」
フォルダにはトラ子さんの色々な角度で撮られた写真と動画があった。
トラ子さんの鼻の先、肉球のアップ写真というマニアックなものもあったが、当然飼い主さんにピントが合った写真はひとつもない。それどころか顔上半分が見切れていたりしている。背景扱いなのはあきらかだった。
勝手に撮ってはいけないと思い、あたしなりに気を使ったのだ。
「いやー、飼い主さんに許可をもらえてよかったです。たしかにいきなり撮るのはトラ子さんに失礼ですもんね!それにしてもトラ子さんは美ネコだなあ。白目剥いてても美人…!あの~、できればその美も保存しておきたいんですけど、よければ撮ってもらえませんか?」
「……」
飼い主さんはだまってカメラアプリを起動させて、自分の膝のうえでぐっすり寝ているトラ子さんを撮影してくれた。トラ子さんは白目を剥いているうえに、舌まで出ていた。
「……」
飼い主さんは無言のままスマホを返してくれた。
「ありがとうございます!どれどれ…ああっ、美しいです!」
「…なるほどね」
「え?」
飼い主さんはなにかを納得したようだった。
「う~ん」飼い主さんはうでを組んでなにやら考えていた。「これで怒るのは大人げないかあ。理不尽だし」
「えっ、あたし怒られるようなことしました?」
「…した」
おどろいた。あたしのせいでおこっているらしい。
ジト目でにらまれて、あたしは考えた。
そしてハッと気づいた。
「ごめんなさい…」
「お?」
「たしかに勝手に庭に入ってきて悪かったです。あと、寝てるとこ起こしちゃったっぽいですし…」
そう言うと、飼い主さんはなにかをあきらめたような、悟ったような笑顔になった。
「…うん、そうだね。もういいよ。許そう」
「ありがとうございます!」
よくはわからないが、あたしはお礼だけは元気に言っておいた。
飼い主さんは気を取り直したように言った。
「ネコ大好きなんだね。トラ子さわる?」
「いいんですかっ!?」
「いーよ」
あたしは思いもがけない幸運に飛びつきそうになった。
「…いやっ!けど、トラ子さんが良いと思ってくれてるかどうか…!」
「何を言っているんだキミは?」
飼い主さんはトラ子さんをなでた。すると、トラ子さんは「うにゃん」と身をよじった。
「…っ!ちょっとだけ…さわってもいいですか…?」
「さわっていいって言ってるじゃん」
「じゃあ、ちょっとだけ…はあ…!はあ…!」
「…鼻息荒くない?」
あたしはゆっくりとトラ子さんににじり寄った。
するとただならない気配を感じたのか、トラ子さんは白目をギョッとした目にして、すぐさま跳ね起きた。
「いたっ!」
そして、飼い主さんの膝をキックするようにスタートダッシュを決め、茂みのなかへと逃げていった。
「ああ…!」
あたしは届かない手をのばすしかなかった。その姿はいかにも情けなかったと思う。
「ぷっ」
飼い主さんは吹き出した。
あたしはジロリと飼い主さんを見た。
「ふふっ、笑っちゃいけないよね。……ふふっ」
「笑ってるじゃないですか」
「ごめんごめん。自己紹介しようか。ボクは屋敷沢ポー。あなたは?」
「あ、七海菜々です」
この人が昨日父の言っていた“ポー”か。庭にいるから屋敷沢家の人だとは思っていたが。
3歳のあたしはなついていたというが、まったく見覚えがなかった。
というか、“ポーちゃん”じゃなかったっけ?
「ん?七海…菜々?」
ポーはあたしの顔をのぞきこんだ。
「ちょ、ちょっと…!」
あまりにもきれいな顔がいきなり至近距離にきたからおどろいた。
「もしかして…、ナナちゃん…?」
「え、はい?まあ、そうですけど…?」
「うわぁ!なつかしい!」
「ぎゃっ!」
あたしはぎゅ~!とポーに抱きしめられていた。
「え~!わ~!大きくなったねえ!アハハ!かわいくなって!」
「ぎゃぎゃっ!」
今度はほっぺたに二回キスされた。変な声を出すくらいしかできない。
どうやらポーはあたしのことをおぼえているらしい。
だけど、あたしはおぼえていないのだ。
「ちょっ、はなしてください!訴えますよ!」
むにっ
突き放そうとむねを押すと、手にやわらかい感触が伝わってきた。
ん?
「え~!冷たいな~!昔はあんなにポーお姉ちゃん、ポーお姉ちゃんって寄ってきたのに~!」
「お、女の子?」
あたしがおどろくと、ポーはニヤリと笑ってみせた。
「ポーお兄ちゃんのほうがよかったかな?」
その余裕の笑みは高貴な王子様を思わせた。
「ど、どっちでもいいです!放してください!」
「はいはい」
ポーはあっさりとあたしを放した。
「それにしても、なんでこんなところにいるんだい?」
「…聞いてないんですか?今日から一ヶ月間こちらでお世話になるんです」
昨日の今日のことだから、まだ伝わっていないのかもしれない。
あたしは不安に思った。
やっぱりあんまり歓迎されてないんじゃないか?
「え~!ホント~!うれしいなあ!仲良くやろうねっ!」
ポーはあたしの手をとって、満面の笑みを見せたのだった。
「あ、あはは、よろしくお願いします」
どうやら、ポーに関しては不安になる必要はなさそうだった。
ホッとする。
「ナナちゃ~ん!どこー?」
父の声が聞こえた。あたしを探しているようだ。あたりまえか。
「あ、父が探してるんで行きます」
「ん?なんでスマホに連絡ないの?」
「連絡はきてると思いますけど、ミュートにしてるんで」
「お、おお…、そうなんだね」
「はい。それではまたあとでお会いしましょう」
あたしは父の声がする方向に向かった。
一回ふりかえると、ポーはそれに気づいてほほ笑んでくれた。
あたしはすぐに前を向いて走り出した。
顔はなぜかニヤついていた。
他人の家で一ヶ月も暮らすけど、トラ子さんもいるし、あたしのモチベーションはちょっと上がったのだった。
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