夏休みのパープルアイズ
楽使天行太
第1話 最悪の夏休み
夏だ。
それも一年で一番楽しいと言われている夏休み。
にもかかわらず、あたしは家で皿を洗っていた。
だけど、それもいいだろう。
なんたって、来週には沖縄に行くんだから。
はじめての沖縄で、はじめてスキューバダイビングをし、ホエールウォッチングをする。
西表島にも行くから、もしかしたらイリオモテヤマネコに出会えるかもしれない。
それを思えば、お皿なんて100枚でも200枚でも洗えてしまう。
つまり、あたしはうかれているのだ。
ふと、そんなうかれたあたしの背筋がゾクゾクっとした。
うしろからただならない圧を感じたのだ。たとえるなら、クマが背後でうずくまっているような気配だった。
あたしはとっさにふりむいた。
「わっ!」
すると、そこにいたのはクマではなくて、クマのような父が器用にからだをおりたたんで、土下座をしていたのだった。
「ごめん!ナナちゃん!」
ナナというのはあたしの名前だ。菜々と書く。名字は七海。七海菜々。ナが多い。
そんなことよりも、父はなぜかあたしに土下座しているのだった。
だけど、あたしにはあやまられる心当たりがなかった。
むしろ、今こうして土下座していることをあやまってほしいくらいだ。
心臓に悪い。
というのも、土下座スタイルはうずくまっている形だから、父がたおれたのかと一瞬思った。
もしも父までたおれてしまったら、あたしは天涯孤独の身になってしまう。
半年前に母は交通事故で亡くなってしまったから。
「えーと、おもてを上げい」
とりあえず、土下座をやめてもらった。なぜか殿様口調になってしまったけど。
父はクマらしくのっそりと顔をあげた。
「で、なんのこと?」
聞いた。コミュニケーションは大事だ。
「実は、旅行に行けなくなってしまったんだ」
「…旅行って、どの旅行?」
あたしは思考が停止してしまって、聞くまでもないことを聞いた。
なぜなら、旅行の予定は来週の沖縄旅行しかない。
ということは、行けなくなった旅行というのは、あの楽しみにしていた沖縄旅行ということになる。
あたしは手にもっていた泡だらけの皿をシンクにおいた。
水が出っぱなしになっていて、シンクに当たるボトボトボトという音だけがひびいていた。
父は気まずそうにただうつむいている。
あたしはとりあえず蛇口をひねって、水を止めた。水道代がもったいない。
「なんで?」
あたしは理由を聞いた。理由くらい、いつでも聞ける余裕をもちたいものだ。
きっと、それが大人というものだろう。
「急な出張が入っちゃって、それもアマゾンの奥地に一ヶ月…」
父はいったいどんな仕事をしているのか、前に聞いたことがある。
そしたら「う~ん…、インディ・ジョーンズみたいな仕事かな?」と言っていた。
ウソかつまらない冗談だと思う。
「そっかあ…」
父を見ると、あたし以上にションボリしているのがわかった。
まゆげがハの字だ。なんなら今にも泣きそうじゃないか。
父親が子供に土下座をするというのもよっぽどだろうし、しょうがない。
「残念だけど、また今度にしよう」
あたしがそういうと、父はあらためて「すまない…」と肩を落とした。ヒグマがマレーグマになったみたいだった。
「まあ、お金は置いてってね。炊事、洗濯、掃除、知ってのとおり一応ぜんぶできるし、心配しないでいってらっしゃい」
あたしは心を切り替えてワクワクし始めていた。
なんといっても、一ヶ月ひとり暮らしが体験できるのだ。
なにをするにしても、しないにしても、自分で決められる。
ことによると、沖縄に行くより楽しくなるかもしれない。
好きな時間に寝て、お昼すぎに起きて、ミニロールパンを縦に指で割いてマヨネーズとウインナーを入れて焼き、コーラ片手に、映画を観る。ソファでぐでっと寝っ転がりながらだ。いや、もしかしたら禁断のベッドで、という手もある。
なにせ、ひとりきりなのだから。
良いじゃないか…!
ションボリしている父には悪いが、そんな自由な生活にワクワクしないといったらウソだ。
「え?なにを言っているんだい。子供をひとりで一ヶ月も置いていけるわけないじゃないか」
「え?」
しかし、父は急にまともでふつうなことを言った。
「安心してほしい!父さんの友人に面倒見てもらうよう頼んどいたから!」
「…というと?」
イヤな予感がした。
「一ヶ月、父さんの友人宅で暮らすということだよ。沖縄にも負けない良いところだよ!」
父は罪のない笑顔を向けてきた。まゆげがいつもの逆ハの字になっている。
ちょっと、イラッとした。
「父さん、その友人宅っていうのは、もちろんあたしも知っている人なんだよね?」
「あたりまえじゃないか!そうじゃないと、ナナちゃんもくつろげないだろう?」
ちょっと、ホッとした。
いくらなんでも赤の他人の家に一ヶ月もおじゃまするのは気が引ける。
せっかくの夏休みにずっと窮屈な思いをするところだった。くつろぐかどうかは別にして、知っている人の家なら、正座を崩すくらいの気持ちにはなれるかもしれない。
そうは言っても、やっぱりハードルの高さは感じてしまう。
「ねえ、父さん、あたしはひとり暮らしでもいいと思うんだけど。だいじょうぶ、もう大人だよ」
意見を言うのは大事だ。
「ナナちゃん、キミは何歳だったかな?」
「10歳」
「うん、そうだね。小学四年生だ。たしかにナナちゃんはしっかりしていると思うんだけど、世間的にも、父さんの心配的にもさすがに一ヶ月もひとり暮らしはさせられないよ」
ごめんね、3日くらいなら自立的体験をしてもらうのは有益だと思うんだけど…とかなんとか父はゴニョゴニョ言っていた。
まあ、理解はできる。
今の御時世で、10歳の子供が一ヶ月もひとり暮らししていたら、下手をすれば通報されてしまうだろう。
自分に10歳の子供がいたらと想像して、一ヶ月ひとり暮らしさせるかと考えたら、させないなあとも思う。
「じゃあ、今度3日くらいひとり暮らしさせてもらうとして、結局だれの家?」
そこが問題だ。
父の友人であたしが知っている人は、三人しかいない。
料理人の村中さんと、時計技師の市川さんと、大学教授の秋雨さんだ。
秋雨さんは父の友人というか、職場の上司な気もするが、なんなら一番くつろげるかもしれない。
村中さんはやたらとバーベキューをしたがるし、市川さんの家には小さい女の子がいて、あたしの相手をしている場合じゃないだろう。
その点、秋雨さんはもうおじいちゃんだし、奥さんとふたり暮らしだと聞いていた。お家も書斎があると聞いたから広いのではないか?
秋雨さんであれ。
あたしは願った。
「屋敷沢さんの家だ!」
父が力強くうなずきかけて告げた。
「…だれ?」
やしき…ざわ?
そんな人の名前ははじめて聞いた。
まったく知らない。
「あれ?おぼえてない?」
父は意外そうな顔をする。
「あたし、会ったことあるの?」
名前は知らなくても、顔は知っているのかもしれない。
「あるある」
「いつ?」
「え~と、七年くらい前かな?」
「…三歳のことなんておぼえてないよ」
大人というのは、これだから困る。
子供のおぼえていない昔を引き合いに出しては、話を進めてしまう。
大人の七年前は大人か子供になるだけだが、子供の七年前は赤ちゃんになってしまう。そのことを忘れている。
「秋雨さんじゃダメなの?」
「えっ、教授!?」
父は目玉が飛び出んばかりにおどろいた。
「な、なんで?」
「えっ?だって、やさしそうだし…」
「ま、まあ、そうね…。まー、でも、教授もいっしょにブラジル行くから…」
「そう…。じゃあ、村中さんか市川さんは?」
「あー、ふたりとも里帰りとかしちゃうみたいで…」
「そうか…」
どうやら最悪なパターンになりそうだった。
今年の夏は、赤の他人の家でまったくくつろげない、窮屈な夏休みを送ることになりそうだ。
「あ、あれー?喜ぶと思ったんだけどなあ…。だって、ナナちゃん、ユッコちゃんとかポーちゃんにすごい懐いてたし…」
父はあたしのテンションが見るからに急落しているのを見て、みるみる青い顔になっていった。
「…ユッコちゃん?ポーちゃん?」
「そ、そうそう!思い出した?」
「ぜんぜん」
ポーちゃんというのは、名前からして外国の人なのかもしれない。
だけど、そういったことをくわしく聞いているひまはなかった。
というのも、本当に急に決まった出張らしく、明日には父はブラジルに出発しなければならないらしい。
つまり、あたしも明日には屋敷沢家に行くことになったのだ。
あたしと父はそれぞれ荷造りをしなければならなかった。
終わったのは深夜0時過ぎ。
出発は朝の五時。
あたしたちは寝た。
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