桜はもう七分咲きになっている。週末には葉桜になる木もあるだろう。少し風が吹くだけで、無数の花びらが散る。


 堤防の上に植えられている桜の木々の下にはもう幾枚ものブルーシートが敷かれ、ペグを打ってある。シートの上には花びらが重なり落ちているだけで、花見客はまだだれもいないが、もう少し明るくなったら今日の花見を楽しみに人々がやってくるだろう。


 蒼は自転車から荷物を下ろし、小さなレジャーシートを芝生の上に広げ、瑠璃を待つ。まだ少し早い時間だ。先にコーヒーを入れて眠気をさます。もうかなり温かいので、今日は七輪ではなく、今日はアウトドア用のコンパクトなカセットガスコンロだ。コーヒーをすすったあと、少しギターの弦に触れる。


 こんなときはこれだよな、と思いつつ、森山良太郎の『さくら』の旋律を奏でる。弾きやすく、蒼にとっては歌いやすいのでとても練習を重ねた曲だ。


 そして、久しぶりに奏でる今、歌詞に今の自分に重なる部分があることに気づき、自分が変わったことにも改めて気づかされた。


 背中から、サビの部分で歌詞を合わせる歌声がして、弦をストロークする手を止め、蒼は振り返った。そこにいたのはもちろん瑠璃だ。彼女は通学用の大きなダッフルバッグをもってきていた。


「さくら、きれいだね」


 もちろん桜もきれいだが、朝日の中、長い黒髪をなびかせながら、花吹雪の下に立つ瑠璃は幻想的だった。妖精のような、と転入当初からよく噂されていたが、今の瑠璃は本当に桜の精にも思われる。ゲームのCGムービーかと呆れてしまったほどだ。


「細野くん?」


「あ、う、うん。きれいすぎて驚いていた」


「こんな早朝に桜を眺めるの初めてだよ。うん、きれいだ」


 君が、とは言えなかった。言えなかったが、どうにか気力を振り絞って言い直した。


「君が、きれい過ぎて、驚いたんだ」


 瑠璃は瞬時に頬を赤く染めた。色が白いからすぐにわかる。


「も~ きれいって言われるのは慣れてないって言ったよね」


「しょうがない。心の声が漏れ出してしまったんだから。それに僕がきれいって言っても素直に受け取るって言ってた」


「そこー! あのときと今とではもう状況が違うでしょ!」


 瑠璃は蒼を指さし、悶絶する。蒼は苦笑する。瑠璃は蒼の隣に座ると、ダッフルバッグからパンデイロを取り出すと皮が張ってあるヘッド部分でバシバシと蒼の頭を叩いた。


「褒め殺し禁止!」


「痛くはないがジンバルがうるさい」


 ジンバルとはシャカシャカと音を出す金属部分のことだ。


「何か飲ませろ」


「じゃあ、桜茶にしようか」


 蒼は残っていたコーヒーを飲み干し、軽くすすぎ、瑠璃用に紙コップを用意する。お湯はもうできあがっている。紙コップにお湯を入れる。そして保存パックの中から塩漬けの桜の花を取り出し、お湯の中にひとつまみ入れると、花びらが紙コップの中にゆっくり広がる。ほのかに桜の香りが広がる。


「はい、どうぞ」


 瑠璃に桜茶を差し出し、瑠璃はおそるおそる受け取り、紙コップの中をのぞき込む。


「うわー、きれい」


「おいしいものではないけど、江戸時代にはお祝い事のときに飲んだらしいよ。縁起物だから、どうぞ」


「へえ」瑠璃は口をつける。「なんとなく、塩味。桜の香り。いいね。初めてだよ」


「確かに。おいしいものじゃないけど、まあまあの出来かな」


「もしかしてお手製?」


「こんなの買ってられないよ。この前、じいちゃん家の桜の花を一房持って帰って作ったんだ」


「マメにもほどがある。そういえばお祝い事って言ったよね。お祝い事って言ってたけど、江戸時代はどんなお祝いのときに飲んだのかな?」


「そこまでは調べなかった」


 瑠璃はスマホを手に調べ始め、また真っ赤になる。


「わかった?」


「――わかった、けど、調べたかったら自分で調べて」


「そんな面倒な」


 瑠璃のスマホをのぞき込むとタイトルだけは見えた。


「『結納・婚礼などの慶事のときに出される』」


「どうして君はそう思わせぶりな行動ばかりとるんだー!」


 パンデイロ攻撃再びである。シャカシャカまたうるさい。


「知らなかった。本当に知らなかったんだってば」


「許さない、けど、お願いを聞いてくれたら、許す」


「お願い?」


 蒼が聞き返したとき、おはようと挨拶された。新年のときに眠気覚ましにつきあってくれた散歩の人と犬だった。その後も何度かエンカウントしており、すっかり瑠璃と犬は仲良しだ。瑠璃は立ち上がって犬と遊び始め、蒼は飼い主さんに桜茶を勧める。


 飼い主さんは、この時期はお茶の席でよく出る、と言いつつ幾度も頷いて、飲み干した。その後、犬はまだまだ遊び足りなさそうだったが、リードを引かれて散歩に戻っていった。


「まだ遊びたかったのに」


「君の方もかい。本当に君は動物に好かれるね」


「動物にだけ?」


 瑠璃は上目遣いでじーっと蒼を見る。


「君には敵いません。聞こえたでしょ? 今はお茶の席で普通に出されるみたいだよ」


「スルーされた。まだ許していないんだから」


「じゃあ、お願いってなに?」


「これです」


 瑠璃はダッフルバッグから梱包されたままの衣装を取り出し、レジャーシートの上に置いた。パッケージに名称と写真が掲載されているから、蒼にも一目でその衣装が何なのかわかった。


「マジカル・ジェダイトのコスプレ衣装……」 


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