第10話 気づいてしまった

 卒業式が終わったその日、だいぶ心配事が減り、蒼は安堵しながら自分の部屋でギターをメンテナンスしていた。明日は春分の日で、特に予定もない。ゆっくりできそうだ。


 今は弦の交換の最中だ。弦は消耗品である。定期的に交換しないとならない。蒼は比較的練習量が多い部類に入るので、1ヶ月に1度くらい弦を交換している。弦を切った後にボディを磨き、指板をクリーニングしたあと、レモンオイルを塗る。染みこませる間に英単語の暗記を数分。その後、余ったレモンオイルを不織布で拭き取る。そしてまた先ほど覚えた単語を繰り返す。隙間時間を使った勉強がバカにならないことを、蒼はこの半年で実感しているだけに無駄はしない。


 そして蒼は、弦を新しく張り直す作業の間、このギターが自分の下にやってきてからのことに思いを馳せた。


 まずは、面倒に思いつつも、なんとなく弦を触り、コードを押さえて、チェンジして、旋律を作ってみた。音ができた後、これは音ゲー専用機だと感動したことを思い出す。


 ゲームより簡単でお金がかからないと思って次々とコードを覚えた。コードやマイナー、メジャーなどの音楽用語の意味を調べた。そして調べれば、幾度も繰り返せばどんなに不器用でも覚えられることを知った。世界が広がった。今まで自分は何もしていなかったのだと悟った。歌うことを始め、音楽の世界へと続く道の入り口に立ったことを知り、また感動した。感動と努力で自分は変わった。


 その先に、ほんの少し先に、瑠璃との出会いがあった。


 現実世界に運命なんてものはないだろう。全てが確率と物理法則で説明がつくに違いない。しかし、人の心の中には、確かに運命がある。そして運命は自分の力で変えられる。変えられたからこそ、彼女と会えた。そう思う。ギターを手にしていなければ今も自分は教室の隅にいるだけで、彼女と言葉を交わすことはなかったに違いない。


 あと数日で3年生になる。新学期にはクラス替えもある。また同じクラスになりたいと思う。もちろん沢田とつむぎがいてくれれば、最高だと思うが、そんなに都合良くいかないと諦めてもいる。それでも一度紡いだ縁はそう簡単に切れないとも思う。


 弦を張り終えるとチューニングだ。音を合わせないとならない。ギターでは一般的に英米表記のCDE――が使われ、ドレミは使わない。ドレミはイタリアで使われているラテン語表記だ。国によって音名が違うことを知っただけでも蒼は驚きと感動を覚えたものだ。常識は当てにならないし、当たり前のことは場所が違えば違うのだと知ったからだ。


 だからニュージーランドでは瑠璃がちやほやされなかったと聞いても不思議に思わなかったのかもしれない、とふと思う。文化の違いで当然、かわいいの基準は変わる。いや、国が変わっても彼女は相当かわいいはずだ、と蒼は思うのだが、本人が言うのだからそうなのだろう。


 蒼は1人でクスッと笑う。 


 充電していたスマホが鳴り出し、蒼はケーブルを引っこ抜いて画面を見てみると珍しく音声通話で、しかも“るりりん”の表示だ。慌てて蒼は応答する。


「どうしたの? 音声通話なんて」


『こんばんは。もう夕ご飯は食べた?』


 電話越しの瑠璃の声は、いつもより距離が近い気がしてドギマギする。


「食べたよ。どうしたの?」


『なんだか、話し足りなくって。まだ寝る時間じゃないでしょう』


 まだ午後9時だが、10時には寝る。なにせ朝は5時前に起きるようにしている。河川敷の早朝練習のためだ。ギターの練習で家族の睡眠の邪魔をしたくない。


「うん。少し話せるよ」


『お風呂はまだだから、私もそんな長くは話さないよ』


 お風呂か――思春期男子の煩悩を刺激され、瑠璃のシャワーシーンを想像してしまう。蒼はそれだけで罪悪感を覚え、想像のシャワーシーンをかき消した。彼女は恋人ではない。パートナーだ。そう自分に言い聞かせる。


「今、何していたの?」


『タンブリンを掃除してあげていたんだ』


「偶然、僕もギターをメンテナンスしていたよ」


『さすが、以心伝心だね』


「以心伝心は小学校高学年くらいの問題。この前、ちゃんと復習したよ」


『抜かりない』


「今のうちにね。何か小学生の問題で抜けがないか怖くて、ささーっと問題集をやった」


 蒼はギターをスタンドに立てかけて、布団の上に寝転がった。


『約束覚えていてくれて、実現に向けて勉強してくれていて、嬉しい』


「僕だって、君と同じ学校に行きたいから」


『もう3年生になるから進学先は本気で考えないとね』


「うん。でも少しずつでもギターも歌も上手くなるよう練習するけど」


『バランスとモチベーションが大事だよ。あ、そうそう、調べてみたらこのタンブリン、ブラジルとかでサンバとかボサノバに使う「パンデイロ」ってバリエーションで、音出すところのジングルってパーツが違うみたい』


「じいちゃん、変なの買っていたんだなあ」


『いろいろ調整できて音も変えられて面白い』


「そりゃ良かった。『パンデイロ』か。じいちゃんも君が使ってくれてあの世で喜んでいるに違いない」


『うん』


 もしビデオ通話だったのなら、かわいく頷いた彼女が拝めたに違いない。


「それにしても隊長さん、嬉しそうだったな」


『せっかく忘れていたのに……』


 恩があるからサインはしたものの、彼女にとってあまり嬉しい経験ではないだろう。


「サインしてくれてありがとう」


『るりりん名のサインは初めてだったのに』


「ああ、それは残念だった。僕が一番に貰うべきだった」


『そう言ってくれるなら許す』


「許された」


 蒼は笑んだ。


『明日は何をする予定? 河川敷には行く?』


「もちろん」


『じゃあ、そのとき持って行くね』


「何を?」


『明日の朝までのお楽しみです~』


 例のいたずらっぽい声だった。余り良くない予感がした。


「お花見もしようか。桜はちょうどいい頃合いだよね。時間も早ければ人もいないし」


『うん。わかった。おつまみ楽しみにしているね』


「この時間からだから準備できるのは炙り物とスナック菓子類だね」


『それでも君といられれば楽しいから。ね、なんだかこんな時間に音声通話していると恋人同士みたいじゃない?』


 瑠璃は蒼の心中を察したらしい。蒼はぐっ、とこらえた。


「そう、僕も、思ってました」


 心臓が大きくなったかのような錯覚を覚えるほど高鳴った。


『よかった。同じ気持ちで。じゃあ、明日の朝、河川敷でね。おやすみなさい』


「おやすみ」


 しかし瑠璃の方からは音声通話を切らなかった。


「どうしたの?」


『――切るタイミングがわからない』


「そうだね。じゃあ、いっせいのーで、で切ろう」


『うん』


 いっせいのーで、で2人声を合わせ、同時に音声通話を終わらせた。


 終わらせたはずなのに蒼は耳元から彼女の声が聞こえてくるような気がした。音声通話の余韻に浸れ、幸せな笑みが自然と浮かんでくるのがわかり、布団の上で目を閉じる。


 スマホを手にしたまま、このまま夢の中でも瑠璃に会えればいいのにな、と思った。

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