4
沢田は1時過ぎに学校の図書室に戻ってきた。そして3人の座っている場所が変わっているのを見て、声をあげた。
「細野、坂本さんに勉強を教えて貰っているのか」
瑠璃と蒼が隣り合って座り、つむぎが1人座っている。瑠璃が沢田に言う。
「隣の方が教えやすいので」
「じゃあ俺はこっちに座らせて貰うか」
そう言った後、つむぎの隣に座る。単に女子の隣に座ることになったからという様子ではない。緊張しているのが瑠璃から見ても蒼から見てもわかる。つむぎはノートを見るような仕草で俯いてしまっている。
「沢田くん、よろしく」
「委員長の隣なんて役得だな。俺も勉強、委員長に教えて貰おう」
沢田は白い歯を見せ、つむぎはちらと沢田の方を見た。
「何がいいです?」
「委員長の得意な科目がいいかな。何を教えて貰ってもためになりそうだし」
「じゃあ歴史がいいかな。テスト範囲は江戸時代に入ってから幕末、明治政府までだけど、どの辺がわからない?」
「江戸時代は平賀源内と伊藤若冲と狩野派くらいしかわからない」
「偏りすぎだよ沢田くん」
蒼が目を丸くする。
「興味あることしか覚えてないから」
「芸術系はいけるんです?」
瑠璃が意外に思ったのか口を小さく開ける。
「芸術は面白いよ。歴史そのものは何が面白いかわからないから勢いでそうなる。平賀源内は人が面白いから……」
「歴史は全部面白いです」つむぎが目を細めて沢田を見た。「その様子だと全くわかっていなさそうなので、ざっくり解説から始めます」
「ざっくりって言うと?」
沢田の疑問につむぎは即座に答える。
「アフリカ大陸でチンパンジーと共通の祖先から別れたときから911までです。大丈夫、ざっくりなので90分で終わらせます」
「つむぎ、マジだ」
瑠璃が目をそらし、蒼に言う。
「こっちはこっちで英語の続きをしましょう」
蒼は頷いた。つむぎがものすごい勢いで解説を始め、ノートに図説までし始めたので、蒼と瑠璃は自分たちは自分たちで勉強しなければと、2人の方を見ないことにした。
さすがに概ね300万年ほどの人類史を90分で終わらせるのは無謀だったようで、それでも120分で、つむぎはざっくり解説を終えた。
「すげー、人類は気候変動対応と貿易と宗教と科学と偏見で歴史を作ってきたんだ。俺、急に頭がよくなった気がする。歴史の授業、これでまじめに受けられるわ」
浄化されたかのようなすっきりした沢田の顔を見て、蒼もつむぎのざっくり解説を聞くべきだったかと悔やんだ。瑠璃も同様の感想を抱いたのだろう、こう口を開いた。
「今度、私たちにもざっくり解説お願いね」
「坂本さんたちのときにはもう少し解像度をあげてざっくり解説しますよ」
つむぎは得意げな顔をしたあと沢田の視線に気づき、やっと我に返ったように照れ、露骨に俯いた。
ざっくり解説が終わった頃はもう3時を過ぎていて、少しまとめをしただけで図書室を閉める時間になった。荷物をまとめて4人で校門を出ると、外はもう薄暗くなっていた。
「今日はありがとう。勉強なのに楽しかったわ!」
沢田がつむぎに言い、つむぎは平静を装って沢田を見上げる。
「歴史の教科書、ちゃんと読み返してくださいね」
「ざっくり流し読み」
「それで十分です。でも、何回も」
「ストレッチしている間でもいいんだよな。わかった! 本当にありがとう、委員長!」
沢田だけ逆方向なので校門で別れた。
残った3人は沢田の姿が小さくなるまで見送った。角を曲がるとき、沢田が振り返り、小さく手を上げ、蒼だけ、手を上げて返した。つむぎが応えられないのに合わせて瑠璃も上げなかったのだとすぐにわかった。つむぎが蒼を振り返った。
「細野くん、本当にありがとう。バレンタインデー前に沢田くんと接点ができるなんて思っていなかったから……」
つむぎは感極まっている様子だった。
「僕は何もしていないよ。あ、そうでもないか」蒼が午後も待っていると言ったから沢田も学校に戻りやすかったに違いない。「たまたまさ」
「よかったよかった。さあ、帰ろ。あとで話聞くから」
瑠璃がつむぎの手をとり、つないで歩き出す。
蒼は2人の後ろをゆっくりと歩く。
つむぎが沢田に恋をしていることくらいは、蒼にもわかる。しかし今まで蒼は、恋というものにこんなにも近く接したことはなかった。だから、感じ入るものはあるし、それはとても、大きい。
冷静に考えてみると、蒼が瑠璃に抱く感情はつむぎが見せたそれとは同じ部分もあるが、少し違う気がした。
だから自分の気持ちが恋である自信はないし、恋でなくてもいいと彼は思う。
恋だったら、破れたときに、彼女との関係はきっと終わってしまうだろう。
それは嫌だ。
だけど、ただの友達でもない。
今でも友達ではないと思う。
友達とは呼べなくて、でも、親しくてとても近い関係。
それを日本語でなんというのか蒼には見当がつかない。
瑠璃が不意に蒼を振り返り、蒼は心臓が止まったかと錯覚するほど動揺した。
「細野くんにも今晩、連絡するね」
蒼は頷いた。自分が今、瑠璃に抱いた気持ちに名前をつけられず、蒼は自らの疑問に対する答えを先送りにした。
瑠璃からきたメッセージはつむぎの恋についてだった。蒼はできる限り誠実に、沢田について自分の知る範囲で言葉にしてメッセージを返した。
バレンタインデー当日の朝も、蒼は早朝の河川敷で弾き語りの練習をしていた。到着までに顔のマッサージや舌のストレッチを済ませ、ベンチ前に到着してからも身体全体のストレッチをして、ようやくギターを手にする。腹式呼吸を意識して呼吸を無理なくしつつの発声を心がける。
もちろんギターを奏でる指先にも意識を向けるが、どうも最近、ピックの使い方がしっくり来ない。音も変に反響している。意識することを増やしたことでバランスが崩れたのだと思う。遅かれ早かれぶつかった壁だろう。
何度も繰り返し、経験値を積み、意識するというストレスを減らすしかないと蒼は決めていた。
そして今朝も1人で練習していた瑠璃が、手を休めると蒼の方にやってきた。
「おはよう。休憩しない?」
「うん」
今朝の瑠璃の荷物は大きい。少しの期待とその期待を遮るものが蒼の脳内で交錯する。
2人で隣り合ってベンチに座り、瑠璃がサーモポットをカバンから取り出した。
「今日は、私が飲み物を持ってきた。飲んでくれる?」
「じゃあありがたくいただくかな」
瑠璃が紙コップに注いだ茶色の液体は甘くていい香りがした。
紙コップに唇をつけるともう飲み頃だとわかり、すぐに口に含んだ。
甘く、さらりとした舌触りがした。
「ココア?」
「ホットチョコレート!」
「そう来ましたか。大感謝です。甘くて美味しい。目が覚める」
蒼が女子から貰った初めてのチョコレートだ。
「つむぎに言われて、つむぎといっぱい話をして、私も手作りでチョコを使った何かを作ることにした。そしてこうしてつむぎより先に細野くんにチョコをあげられた。でも、恋じゃないから。つむぎが沢田くんを想っているみたいには、恋じゃないから」
瑠璃はそう言いつつも、頬を赤らめていた。正直に言うべきか悩んだが、曲がりなりにもチョコをくれ、恋ではないと言ってくれた瑠璃に、この気持ちを隠すのはフェアじゃないと蒼は思い、口にした。
「実は僕もそう思っていたんだ。不思議だね。うん、まだ、恋じゃないと思ってる」
「そんな不思議でもないよ。だって2人で同じ経験をしているんだから。君も同じこと思っていたなんて安心したよ。でもね、言いたいことはあるの。まだたった2ヶ月だけど、一緒にいてくれてありがとう。今、すごく楽しいんだ。だから、まだまだこの先まで、よろしくねって言いたい。このホットチョコレートはそういう意味」
「僕も楽しいよ。同じだね、本当に」
瑠璃は自分のコップにホットチョコレートを注いで、ゆっくり飲んだ。
「甘いね。自分で作ったからわかっていたけど」
少し恥ずかしげに、何かをごまかすように瑠璃はまたコップに口をつけた。
蒼はホットチョコレートを飲み干すと、決心を新たにする。
「まずは期末テストを乗り越え、その後にストリートライブ、だね」
瑠璃は大きく頷いた。
「そうだよね!」
「それはそうと食玩チョコはくれないの?」
「あるよ。今、あげる」
瑠璃はカバンから魔法少女の食玩チョコを取り出し、蒼に手渡す。
「もう買ってあったからね。もし私が持っていないが出たらちょうだい」
「う、うん。君の見てる前で開けるね」
「チロルチョコも教室で貰ってね」
「全部で3つもくれるなんて、今までの僕のおもてなしで釣り合うのかな」
「これからもおいしいもの、期待してます」
瑠璃は輝くばかりの満面の笑みを浮かべて蒼を見て首を傾げた。蒼はつぶやいた。
「――ない」
「え、なに?」
「君には敵わないって言ったんだ」
瑠璃は応えず、ただ微笑み続けた。
そして登校した朝の教室では、瑠璃からチロルチョコを貰うためにクラスの男子が列を成しており、蒼もそれに黙って並んだのだった。
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